2013年1月「正月の大半を僕はベッドの上で過ごした」
2013年の正月の大半を、僕はベッドの上で過ごすこととなった。大晦日に集まった時にタックからインフルエンザを移されたからだ。
熱にうなされ夜中に目が覚めた時は、部屋の窓をあけ、椅子に腰かけ、一月のN市の冷たい風を感じながら奈保子のことを考えた。奈保子は変わってしまっているはずなのに、あれからまた毎日奈保子のことを考えていた。
初詣の帰り、N市で一人暮らしを始めたローリーのアパートへ行って、ローリーとタックと僕とで三人麻雀をした。麻雀中、僕は先日の奈保子との飲みの話をした。
「奈保子と飲んだよ。いろいろ話した」
「いいのかそんなことして?ばれたら志帆がうるさいだろ」間髪入れずにローリーが言った。
「もうあいつには言ってあるよ。理解はしてくれてると思う」
「理解してくれてるって、お前が奈保子のことを好きってことをか?」
「好きって言う表現はややこしくなるだろ。特別な女の子ってことだよ」
「それって普通に好きって言うのより性質悪くないか?」と下家からタックが言った。
「知ってる」と僕は言った。
「大丈夫かお前? そろそろやばいんじゃないの? リーチ!」ローリーはそう言って千点棒を放り投げた。
「別に今に始まったことじゃないよ。それに話してみて分かったんだ。彼女はもう俺が知ってる奈保子じゃないって。だからこのまま彼女に対する妙な執着が薄れてくれればいいなとは思ってんだけど」
「だけど?」
「また会うたびに惹かれていくような気もする。変わってしまっていても、それでもいいと思えるようになるんじゃないかってね」
「そりゃお前、浮気ってやつじゃないの?」とローリーが冗談ぽく言った。
「違うよ。誰だってそういう類の感情は少なからず持ち合わせているもんだろ? 交際相手以外の異性への憧れみたいなものを。浮気ってのは交際相手がいながらその感情を意図的に開放して、具体的に行動を起こすことだろ? 俺は志帆以外の女性になびく気は全くないし、仮に感情を抑えられなくなったらすぐに別れる」
「抑えられなくなっちゃうんじゃないの? タックそれロン」
「何!?」
「もうそんな感情を頭から信用できるほど若くないさ」僕の決め台詞はタックの落胆の声にかき消された。
☆
「この間はありがとう。あれからアユム君のことばっかり考えてるよ。彼女いるのは分かってるけど、気になってます…。また逢えたらいいなって思ってるから、N市に帰ってきたら連絡ください」
何気なく開いたメールにはそう書かれていた。思考が停止し、理性は吹き飛び、喜びが体中を音もなく駆け巡った。
これ、もう少し押せばいけるな…。そんな下心が顔を出したところに、息を切らした理性がようやく戻ってきた。理性は下心を摘み上げるとそのままゴールキックの要領で思い切り蹴り飛ばした。僕は霞む水平線の彼方に下心が消えていくのを見届け、それから目を閉じ一度深呼吸した。
「この子、単純すぎないか?」
もし俺以外の人間に言い寄られてもきっと同じようなことになるんじゃないか? もう少し自分の気持ちを疑ってみてもよさそうだけど。ただ、奈保子に気になってると言われて悪い気はしない。でもなんでよりによって彼女がいる時にこうなるんだろう。
複雑な気持ちだった。僕はしばらくそのメールを眺め、喜びでも失望でもない、フラットな感情が戻るのを待った。そして今の奈保子に対する正直な気持ちを伝えることにした。
「俺もあれからずっと奈保子のことを考えています。といっても、ずっと奈保子のことを考えてるのは俺にとって何も特別なことではないんだけどね。奈保子とは普通に話せる友達でいたいってずっと思っていました。中学に入ってからほとんど話す機会もなかっちゃったから。もう長い間連絡も取ってなくて、奈保子もいろいろ変わったと思います。でも俺は何年も前の記憶に頼って奈保子のことを思い出すしか仕方ありません。それなのに思わせぶりな発言をしてしまったことを申し訳なく思っています。俺たちは現在のお互いのことをほとんど何も知りません。それが少しもどかしかったです。ただ俺にとって奈保子は本当に特別な女性なんです。でも今は彼女を大切にしますとしか言うことができません。だからあまり無責任なことは言えませんが、それでもまた奈保子と会いたいです。奈保子ともっと仲良くなりたいです。いつかお互いに独り身だったら、俺が絶対に迎えに行くとだけ約束させてください」
メールを送ったのは深夜の一時半だった。奈保子からの返信は翌日になると思っていたが、意外と早く返信が来た。
「とっても長いメールありがとう(笑)
残念だけど悲しくないというか、アユム君の素直な気持ちが聞けて良かった。志帆とこれからも仲良くね! 応援してるよ! 私も早く彼氏見つけて、沢山自慢したいと思います(笑)
じゃあまた飲み行こうね」
僕が四時間かけて書き上げた渾身のメールに対する返信は、十分後に送られてきた。昔からこんな感じの子だったっけな? と僕は思った。
☆
2013年春。大学を卒業し、この春から僕は大学院生として都内の私立大学のキャンパスに通うことになった。東西線神楽坂駅の近くにバイクの駐輪場付の狭いアパートを見つけ、三月に引っ越しをした。
志帆と付き合ってもう二年が経った。僕らは年齢の割には成熟したカップルだったと思う。お互いに隠し事は一切なかったし、トラブルは対話をもって解決した。お互いが感情的になってピリピリした雰囲気が続いても、どちらかが(多くの場合彼女の方から)歩み寄って話し合いの場を設けた。そして納得いくまで話し合って、お互いの問題点を指摘し合い、それを認めた。仲直りの後はいつも少し清々しかった。感情的になっている時にまともに話をしようとしてくれる女の子は稀だ。僕は志帆のそんな姿勢がすごく好きだったし、そんな関係を誇らしく思っていた。ただ、順風満帆に見える僕らの人間関係も実はある問題を抱えていた。それは僕個人の問題でしかないのだが。
大学院の生活にも徐々に慣れてきた四月の下旬、奈保子からメールが来た。ゴールデンウィークにまとまった休みがもらえたから、都合があったら会おうという内容のものだった。
ゴールデンウィークには帰れそうにないと伝えると、また飲もうねといって連絡は途絶えた。
連休は大学院のレポートや、大学時代のサークル仲間との再会、会計士試験の勉強であっという間に終わってしまった。それから一週間ほど経って、また奈保子からメールが来た。
「何度もごめんね。
今回会えたら話したいことがあったんだけど、話せなかったからメールしました。
私やっぱり免色君のこと気になってて、夏前に会いたいなーなんて思ってるんだけど、近いうちに名古屋来る予定とかありますか?」
「何度もメールしてくれて申し訳ない。
俺も奈保子に会いたいんだけど、知っての通り奈保子に会ったところで今の俺には何もしてあげられないんだ。
この前奈保子に伝えた気持ちに嘘偽りは全くないけど、そのことが奈保子の気持ちを惑わせてしまったことを反省してる。
近いうちに大事な試験があるんだ。少なくともそれまでは遊びに行けないんだよ。ごめん」
「そんな反省しないでよ。私が単純すぎるだけだし(笑)
免色くんに彼女がいるのは分かってたことだから大丈夫だよ。
大学院とか勉強とか大変そうだね。頑張ってね。
突然ごめんなさい。ありがとう」
僕はこのメールのことを志帆に言うべきか言わないべきか迷った。別にやましいことなんて何もないし、伝えたところで彼女を不安にさせるだけかと思って黙っていた。
奈保子の話をすると、いつも志帆の表情は強張った。本人が平静を装っているように努めているのが手に取るようにわかった。そして少し悲しそうな顔をして、「ふーん、それで?」と興味なさげに聞くのだ。
僕はそんな彼女の顔を見るのが居たたまれなかったし、そんな顔をさせてしまう自分を情けなく思った。だが伝えることが僕なりの誠実さだった。
伝えようとすることを諦めない。理解しようとすることを諦めない。それが僕たちの間のルールだった。どちらかを諦めてしまえば、人間関係はお終いなんだと、ふてくされてそっぽを向く志帆に僕は何度も言ってきた。嘘もなければ隠し事もない、そんな理想の関係を目指して交際を続けてきた。おかげで僕らはお互いの最も良き理解者となることができた。
でも結局は、何かやましいものがそこに含まれているから僕は志帆に伝えるべきか否かを悩んだわけであって、志帆に伝えなければという義務感は僕の彼女に対する親切心からくるものではなく、僕自身の保身のために吐き出しておきたかっただけなのかもしれない。
そういえば僕は大学時代、休みの度に奈保子にメールを送っていた。良かったら飲みに行こうよとか、帰ってきたら連絡してと言って。そして毎回断られた。今忙しいとか、その日は無理だ、という具合に。今ではまるっきり立場が逆だなと僕は思った。奈保子はあの時のことを覚えているんだろうか。奈保子はあの時どんな風に僕を見ていたんだろう。
きっと彼女は、過去に自分が抱えていた感情を何も覚えていないんだろう。それが普通なのかもしれない。誰もが僕のように過去を生きていたら世界は回らない。
僕は世界中の人間が布団をかぶって朝のベッドから起き上がれなくなるところを想像した。人間社会の営みが中断される中、自然の営みだけが外の世界でいつも通りに行われている。太陽が真上に上がっても、渋谷の電子モニターは真っ暗で、スクランブル交差点には人ひとりいない。首都高からは車の影が消え、霞が関も夜には真っ暗になる。
そんな世界も悪くないと思った。
おわり