2015年10月「恋愛パズル」
2015年八月。キャンペーンを初めておよそ一ヶ月が経過した。週末の夜、僕はアキラと二人でいつものようにHUBへ向かった。
店内はまもなく夏休みを迎えるであろう浮かれた大学生で溢れていた。カウンターの隅でグラスを片手に店内を物色していると、アキラが言った。
「あの手前から二番目のテーブル近くにいる大学生かわいくない?」
確かにアキラ好みだ。今捕まってる男との会話も盛り上がってはいなさそうだし、隙を狙って声をかけよう。
そうしてタイミングを伺っている僕たちの前に、かなり酔っ払った様子の女の子が一人現れた。彼女は少し小さめの白いTシャツにデニムのショートスカートという格好で、おでこに半分破れたハイネケンのシールを貼っていた。少し下膨れの顔にボブカットがよく似合っているかわいらしい子だった。彼女はニコニコしながら僕たちに言った。
「お兄さんたち、今香織のことイヤらしい目で見てたでしょう! 呼んであげるから待ってて!」
そして後ろを振り返り、先程のアキラ好みの女の子に向かってこう叫んだ。
「おーい香織ー! ここのお兄さんたちが奢ってくれるってー!」
二人はどうやら一緒に来店した友達らしかった。おかげでこちらから声をかける手間がはぶけた。
「ほらお兄さん連れてきてあげたよ。香織って言うの、かわいいでしょ? 私たち小学生のころから仲良しなんだよ。ビール奢って!」
「パイントでいいね?」とアキラが言ってカウンターにカードを出した。彼女たちのビールが揃ったところで、我々は改めて乾杯した。
「君なれてるね。ここよく来るの?」と僕は思わず元気な子に訊ねた。
「今日で二回目。最初来たときみんなが奢ってくれたからまた来てみたの。本当は四人で来たんだけどあと二人はどっか行っちゃった」と笑いながら彼女は言った。
「こっちの子が香織ちゃんで、君の名前は?」
「杏だよ。お兄さんたちは?」
僕たちもそれぞれ名乗って右手を差し出し、握手を交わした。
杏と香織は今年二十歳になったばかりの大学二年生だった。この店で声をかけた女の子の中では一番若い。僕は当時二十四歳、ずいぶん年の差があるように感じた。
二人は江戸川区の出身だった。東京生まれの東京育ちだ。香織はぱっちりした二重に色白の小顔でスタイルもよく、いかにもアキラが好きそうなタイプの女の子だった。いつも学年で一番目か二番目くらいに美人で、親戚や友達や教師からも容姿を褒められて育ったような女の子だ。香織に比べると杏は、はっきり言って容姿で男性の注目を浴びることが難しそうなタイプの女の子だった。それでもなぜか僕はひと目見たときから杏に好感を抱いていた。上目遣いで物欲しそうに見つめる潤んだ瞳と明るい笑い声、ほどよい脂肪に包まれた彼女の体型は確かに僕の好みだった。
「お二人はおいくつなんですか?」と香織が僕たちに訊ねた。
「いくつに見える? 当たったらチュウしよ」とアキラが言った。このころのアキラが好んで使った台詞だ。アキラは酔っ払うと男にもキスをする奴だった。
「逆じゃない? ハズレたらじゃないの?」と言って彼女たちは笑った。
「はいはい! あたしチュウ上手いよ!」と杏が手をあげて言った。
「じゃあキスしてみてよ」と僕が彼女の肩を抱き寄せ顔を近づけると、杏は僕の頬を抱えるようにして僕にキスをした。それが杏との出会いだった。
僕らはその後何かと理由をつけて杏とキスをした。確かに彼女のキスはうまかった。
その後のことはもうよく覚えてないが、僕が翌朝バイトに行こうと目覚めると、隣にはブラック・サバスのTシャツを着て眠る杏の姿があった。
☆
僕はその後もキャンペーンを続けた。とにかく自分で決めた期限までは走り続けるのだ。婚活アプリで『いいね』を送り、LINEの未読メッセージにせっせと返信し、日が暮れたころ女の子とデートに出かけ、週末は新宿でナンパをした。杏はキャンペーンの中でであった一人の女の子に過ぎなかった。
僕はこのとき既にかなりの自信をつけていた。数ヶ月前には結婚できない、彼女ができないと憂いていた自分が嘘のようだった。このときの僕には女性を喜ばせることができた。彼女たちの求めているものを与えてあげることができた。断られても必要以上に傷付かない心を鍛え上げていた。
八月末という期限まで残り二週間。目標を大きく上回って成果を出した僕は、残り二週間で彼女を作ることにした。
目標が「女性に馴れること」から「彼女を作ること」へとシフトした僕は、デートの相手を変えることにした。今までは全員が新規の女の子だったが、その中から候補になりそうな子を何人か選んで再び合う約束を取り付けた。もちろん断られることもあったが、僕は全く気にしなかった。弾はまだいくらでもあるのだ。LINEという名のイケスには鮮魚がところ狭しと泳ぎ回っていた。
僕は杏にも連絡を取ってみることにした。そしてある平日の夕暮れに、二人で神楽坂の水上カフェレストランへ行った。そこで僕は初めて杏と二人きりでまともな会話をした。
「久しぶりだね。もう会ってくれないかと思ったよ」と僕はハイネケンの瓶を飲みながら言った。
「あたしも本当は迷ったんですよ、今日来るかどうか。でもここ前から来たかったお店なんでつい来ちゃいました」と言って杏はニコリと笑った。
僕は始めてみたときの杏の笑顔と、その魅力を思い出した。もちろん会話のあとに取ってつけたような社交的な笑顔なのだが、その笑顔には全く嫌味が感じられなかった。とても素敵で愛らしい笑みだった。
僕がそう言うと、彼女はとても喜んだ。
彼女は神奈川にある大学の農学部の学生だった。長手袋をして牛の肛門に手を突っ込んだり、鶏を解剖したりするのだと言った。彼女の友達にカラスが好きな女の子がいて、決まった時間に決まった場所で餌をあげて手懐けたという話を楽しそうにした。
僕はそんな無邪気な彼女の眩しい若さを眺めながらビールを飲んだ。
「彼氏はいないの?」と僕は訊いてみた。
「高校まで付き合ってた彼氏がいたんですけど、卒業するとき別れちゃったんです」
「まだ未練がありそうな言い方だけど?」と僕は言った。
「別れた時は引きずりましたね。今でもまだ少し気になる部分はありますけど、もう二年も前の話だし、流石に吹っ切れました」
「そうなんだ。大変だったね。彼氏のどんなところが好きだったの?」
「どんなところかぁ。彼すごく頭が良かったんです。私の知らないことを沢山知ってて、頭の回転も早くて、そんなところに憧れてたのかもしれないですね」
「そっか」と言って僕は大きく肯いた。
一本目の瓶が空になった頃に、杏が僕に訪ねた。
「なんだかこの前会った時と全然様子が違いますけど、何かあったんですか?」
僕は笑って首を振った。
「あの時はアキラと飲んでてだいぶ酔っ払ってたからね。普段はこんなもんだよ。一応もう二十四だしね。全然チャラくないだろ?」
「えー、なんか騙されてる気がします」そう言って杏は笑った。
☆
僕たちは頻繁に連絡を取り合うようになった。その間も僕は他の女性とのデートを続けた。その代わりもうHUBへは行かなくなった。これ以上の出会いは必要ない。
そうして2015年の八月は通り過ぎていった。三十人以上の女性に声をかけ、二十人ほどの女性の連絡先を手に入れ、十人以上の女性とデートを重ね、そのうちの五人と寝た。上出来だ。
八月三十一日、僕はキャンペーン期間中の最後の女性と錦糸町で飲んだ。そして東西線の神楽坂駅からアパートへ帰る途中、激しい目眩と吐き気に襲われ、道路脇でしゃがんだまま身動きがとれなくなってしまった。
僕はぐるぐる回る視界を瞼で遮断し、道路に手をついて平衡感覚を保とうとした。溢れ出る気持ちの悪い唾液を飲み込み、胃から湧き上がってくる嗚咽に耐えた。しばらく休んだが治まりそうにない。ここで吐くわけにもいかない。これまでに経験したことのない出来事だった。
その時携帯の着信音が鳴った。僕は少なくともこのまま耐えているよりは気が紛れるかもしれないと思い、相手も確認せず電話を取った。
「アユムさん! 今日泊まっていい?! 今新宿で飲んでたんだけど終電なくなっちゃって明日バイトなんだよね!」
電話の相手は杏だった。また例の調子で飲んでいるようで、大声で叫ぶ彼女の声が僕の鼓膜に突き刺さった。
「泊まって行くのは構わないけど、ちょっとお願いしていいかな?」
「やったー! ありがとう! エッチしてもいいけど朝5時に帰るからね!」
僕は杏に自分の居場所を伝え、そこまで迎えに来てもらった。彼女がつくまでの間に辛うじて吐き気は収まった。そして低いブロック塀に腰掛けて彼女を待った。また歩きだしたらすぐに吐き気が戻ってきそうだったので、僕はそのまま座ってタバコを一本吸って気持ちを落ち着かせた。
タクシーで神楽坂までやってきた杏に事情を説明し、彼女の肩を借りて家までゆっくり歩いた。杏は心配したが、僕には心当たりがあった。そして帰り道で僕は杏に説明した。
「この一ヶ月で、俺は三十人以上の女性に話しかけた。ナンパと婚活アプリ合わせて二十人以上の女性の連絡先を手に入れた。十人以上の女性とデートして、五人と寝た。これは過度のストレスによる体の拒絶反応だ」
杏は少しの間困惑した表情を見せ、そして反射的に僕から身体を遠ざけた。
「信じられない! 私もその一人ってこと?」
「残念だけど、今はそうだ」
「最低! 私もう帰る、バイバイ」
杏は吐き捨てるようにそう言って駅に向かって歩き出したが、少しして思い出したように引き返してきた。
「てことは私に言ってた言葉も全部嘘ってこと?」
「隠してた事は謝る。でも嘘はついてない。今日でもうその戦いも終わった。俺は気付いたよ、自分に女遊びは向いてないってね。俺は確かに女好きだけど、女遊びは向いてない。もうこりごりだ」
「そんなに遊んでやりまくって何言ってんのよ! もう全然信じられない!」
「嘘じゃない。そのストレスで俺は今こうなってる。これ以上続けたら身体が持たない。もう止めだ」
そこまで言うと杏はやっとおとなしくなった。
僕は家に帰って小一時間トイレで嘔吐した。僕がトイレにこもっている間に杏はシャワーを浴びでベッドで寝てしまった。僕もシャワーを浴びて彼女の隣に潜り込んだ。
沈黙した部屋に首都高の唸りが微かに聞こえてきた。まだ起きていた杏が僕に訊ねた。
「どうしてそんなことになったの?」
「話すと長くなるんだ」
僕は事の発端から一部始終を包み隠さず杏に話た。奈保子に振られたこと、ひかるさんとうまくいかなかったこと。男としての自信を完全に喪失してしまったこと。女性に笑いかけ、バイト先の女の子に話しかけることから始めたこと。HUBに通って、婚活アプリで知り合った女性とデートに行ったこと。
僕はどれほど自分が自信を失っていたか、そしてどれほど真剣にこのキャンペーンに打ち込んだかを杏にきちんと説明した。
「アユムさんて本当に変わってるね」
杏は時々笑いながらそう言った。
そして僕は杏への気持ちを正直に語った。このキャンペーン期間中に出会った誰よりも彼女が魅力的であること。これからも関係を持ちたいと思っていること。
僕が一通り説明し終えたところで彼女は言った。
「それで、今までの私への言葉は嘘じゃなかったって言うのね?」
「その通り」
「私のこと好き?」
「好きだよ」
「じゃあ許してあげる」
そう言って杏は僕に抱きついてキスをした。馬乗りになった杏はおもむろに服を脱ぎ捨て、その豊満な乳房を揉むようにと僕の手を取り促した。
杏は恍惚とした表情を浮かべ天井に向かって短く声をあげた。そして僕の股間に手を伸ばした。
「ねぇ、ちょっと待って。全然立ってないんですけど!」と杏は笑いながら言った。
「今日はやっぱり調子が悪いみたい。ごめんね」
「もう信じらんない!」と言ってふてくされて布団をかぶった杏を、僕は後ろから抱きしめた。そして指で彼女をオーガズムへ導き、僕たちはそのまま寝てしまった。
☆
その後、僕は杏と交際することになった。その後も頻繁に会うようになったある日、ベッドの上で杏がこう言ったのだ。
「彼女にしてくれなきゃ、私はここで暴れます」
狭いアパートで暴れられては困るので僕はその脅迫に従うことにした。
九月に入って、僕は会計士の予備校に通い始めた。そして婚活アプリをすべて解約し、手に入れた女性の連絡先を、杏を除きすべてブロックした。
杏は賢い子だった。自分の頭で物事を考えられる子だった。事実に対して深い洞察を得ようという姿勢があった。僕は杏のそんなところが好きだった。
理系の忙しい講義とアルバイトの合間を縫って彼女は僕のアパートへ遊びに来た。彼女は若く、セックスに飢えていたが、なぜかその後も僕の性機能は回復しなかった。そんなことは初めてだった。僕は男としての存在価値を否定されたような気分だった。オスとして彼女を満足させてあげられないことが悔しかったが、自分ではどうしようもなかった。彼女が愛情を込めて愛撫しても、僕のペニスは力なく沈黙を続けた。その度に彼女は落胆し、僕は指で彼女を慰めた。
週末にはよく二人で散歩へ出かけた。杏の卒業した女子高の近くにあるという植物園へ行ったり、終電間際の大崎駅へ出かけ夜通し歩いて江戸川橋のアパートまで帰るなんてこともした。
杏との会話は楽しかった。彼女は僕から多くを吸収することを求め、僕は彼女へ与えられるものがあることを嬉しく思った。彼女は本当に物分りが良かった。彼女の周りの友人の多くはそんな杏の賢さに気がついていないようだった。
「そんな風に言ってくれたの、アユムさんが初めてです」と杏は照れながら言った。たぶん彼女が大人すぎるのだろう。経験豊富な分同世代の学生に比べていろんなものが見えていて、いろんな洞察があった。
そんな平和な日々が二ヶ月ほど続いたある日、奈保子から連絡が入った。
☆
「お久しぶり。元気? どうしてるかなと思ってLINEしちゃいました」
奈保子が(また)彼氏と別れた。僕は直感的にそう思った。だがその後胸に沸き起こった感情はこれまでのものとは全く別物だった。
僕はこれまで、奈保子から連絡があればいつでも胸を高鳴らせ彼女を受け入れることができた。その他すべてを忘れ彼女に夢中になることができた。でも今回は違った。
僕は半年前に完膚なきまでに奈保子に裏切られているのだ。ここで手放しに彼女を受け入れれば、再び再起不能にされるであろうと僕は危惧した。
「ようやく杏との幸せな生活を手に入れたというのに、どうしてこうタイミング悪く連絡してくるのだろう? なぜ僕たちはいつもこうすれ違ってしまうのだろう?」と僕は思った。
そしてかつて胸の内に立てた密やかな、そして強固な誓いを思いだした。
「もし奈保子から連絡が入ったら、その時どんな相手と付き合っていようと、問答無用で別れる」
週末に神奈川県の三崎口駅へ海鮮丼を食べに行こうと約束していた杏に僕はLINEを送った。
「本当に申し訳ないんだけど、週末の約束なしにしてもらえる? ごめんね」
「はーい」
僕はその後、杏を誘って東京ドームホテルのバーへ向かった。キャンペーン期間中に女の子を連れてこようと以前下見に来たバーで、立ち飲みではあるがチャージもなく綺麗な夜景が見られるバーだった。
僕は杏に説明した。
「奈保子から連絡があった。悪いけど別れてほしい」
初めのうち杏は笑って戯けていたが、帰りのエレベーターに乗るや否や彼女は泣き出した。僕は彼女を必死で慰め、その涙を止めるために一度切り出した別れを撤回した。
☆
翌日はハロウィンだった。ブームが去る前に人で賑わう渋谷を見ておきたいという思いで、アキラを誘って街へ繰り出した。
僕はクローゼットからここ数年日の光を浴びなかった服たちを引っ張り出し、シド・ヴィシャスの仮装で参戦することにした。ジョージ・コックスのラバー・ソールを履き、エイプリル77のブラック・スキニーにシドベルトを巻き、ブライアン・セッツァーの赤いTシャツにショットの革ジャンを纏い、いつか耳に開けた5つの穴にピアスをねじ込み、髪を逆立て有刺鉄線のブレスレットと南京錠のネックレスで渋谷に乗り込んだ。
渋谷はお祭り騒ぎだった。仮装をした人が車道まで溢れ、ネオンやデカールを付けたド派手なカスタムカーやマリオカートが人混みを掻き分けながら走っていた。ハロウィンの何たるかなんて全く知る由もないが、少なくともこんなものはハロウィンではないと僕は思った。暇を持て余した馬鹿どもが仮装という匿名性を盾に日頃の鬱憤を晴らすため騒ぎに集まっているだけだ。
僕は面白い仮装を見つけると声をかけ一緒に写真を撮った。そしてロックバーで見知らぬ集団とテキーラをショットして、ビール瓶を片手に店の外でドント・ルック・バック・イン・アンガーを合唱して、タバコを吸いながら道路に小便をした。
その翌朝、良いも冷め切らぬ状態で僕はバスに乗り込み、名古屋にいる奈保子に会いに行った。
奈保子が彼氏と別れていることを確認し、彼女の意見に共感している風を適当に装い、年末にまた連絡すると言って東京へ帰った。
☆
僕はキャンペーンを経て、男としての自信を手に入れたはずだった。そして易易と彼女を作って、ささやかな幸せを掴んだ。あの奈保子さえも再び手に入れようとしていた。しかしこの疲労感は一体何だろう?
僕は心も身体もボロボロだった。僕の心は疲れ切ってやせ細っていた。生え際は後退し、肌は荒れ、ペニスは沈黙し続けた。
僕がその時心から求めていたのは、憧れの奈保子を手に入れることでも、杏との実りある会話でもなかった。
僕はただ志帆に話を聞いてもらいたかった。志帆に会って、そしてこれまでのことを洗いざらい話して、彼女にそれを認めてもらいたかった。
☆
十二月、僕は杏を連れ、二人で八ヶ岳の麓にある温泉に行った。年末、僕は奈保子に呼び出され、「今ここで付き合わなければ、私はもう二度とあなたとは付き合わない」と脅迫めいた台詞を浴びせられ、仕方なく交際を始めた。杏の成人式の日に、僕は再び彼女に別れを切り出した。もう二度と後戻りしない決意で、アキラの家でウィスキーを飲みながら杏に最後のLINEを送った。
奈保子との交際は悲惨なものだった。はじめこそ彼女は盛り上がって頻繁にLINEを送って来たが、一ヶ月もしないうちにメッセージは途絶えた。結局お互いへの理解なき交際など中身のないただの口約束に過ぎない。そのことが奈保子はわからないのだ。今年二十歳の杏ですら分かることが、ほんの少し想像力を働かせれば分かることが、二十五歳の彼女には理解できないのだ。
僕は月に一回ほど、奈保子の気持ちを繋ぎ止めるために気休めのLINEを送った。奈保子からの返信はいつも素っ気なかった。まるで僕になど興味がないというような態度だった。
僕は予備校近くの川辺を歩いてよく杏のことを考えた。彼女は今頃どうしているだろう? きっと杏のことだから、僕のいない世界で楽しむ方法を既に見つけていることだろう。杏に伝えたいことはまだまだ沢山あった。僕たちの間にはまだまだ話すべきことが沢山あった。そしてそのことについて考えるのが僕は楽しかった。次に杏に会ったら何を話そう? あのことを杏にも教えてあげなくちゃ。
でも奈保子は違った。僕たちの間に共通の関心事など一つもありはしなかった。奈保子に伝えたいことは確かに沢山あった。だがそのことごとくを彼女は必要としていなかった。奈保子の前では僕は全くの無価値だった。女性の望みを与えてあげられる人間になったはずなのに、なぜか僕から奈保子に与えてあげられるものは一つもないように思えた。
☆
2016年三月、僕は志帆と二人で長野の温泉旅館へ行った。志帆の両親が予約していたものが急な予定が入り行けなくなってしまったとのことだった。半年以上前に予約しないと泊まれないという人気宿だったので、せっかくだから行って来なさいと言われたのだと志帆は言った。
奈保子と付き合っていた僕は志帆からその連絡を受けて、ほとんど何のためらいもなく喜んで誘いに乗った。
僕たちは東北縦貫自動車道から北関東自動車道と上越自動車道を乗り継ぎ、長野県の須坂市に向かった。
高速を降りてしばらく山に向かって走った川沿いにその旅館はあった。「花仙庵 仙仁温泉 岩の湯」と入口に書かれていた。駐車場から少し歩き、小川にかかる橋を渡った場所にあるその旅館は、外部から完全に隔離されていた。
僕たちは入り口横の待合席でウェルカムドリンクを振る舞われ、宿についての簡単な説明を受けた。こんな豪華に持てなしてくれる旅館に泊まるのは、当時学生だったぼくには初めての体験だった。何せ一泊四万円以上、二人で八万円もするのだ。初めのうち面食らっていた僕は、高級旅館とはそういうものなのかもしれないと思うことにした。
宿には貸し切り風呂が三つと大浴場が一つあった。大浴場の洞窟風呂が自慢らしい。何の前情報もなくただ志帆に誘われるがままにがやってきた僕は貸し切り風呂と聞いて少し動揺した。それは志帆も同じだっただろう。しかしせっかく一緒に来たんだし(今更裸を見られて何か不都合があるわけでもないし)という無言の合意を確信した僕たちは、二人でのんびり三時間ほどかけて三つの風呂を回った。
一つ目の風呂は山側に向かって開いた半露天風呂で、僕はしばらく湯に使って身体を温め、露天の石の上で寝そべり高く伸びた杉の木を眺めた。あたりは本当に静かで、杉の葉が風に揺れるかさかさとした音だけが微かに聞こえた。
そして奈保子のことを考えた。僕にとって奈保子とは一体何なんだろう? 彼女の何がそれほど僕を執拗に縛り付けるのだろう? そして僕はいつまでこの問を自問し続けるのだろう?
僕は奈保子を誰よりも激しく求め、同時に激しく憎んでいた。奈保子を深く愛し、同時に深く恨んでもいた。奈保子さえいなければという思いと、奈保子がいてくれなければという思いが、心の中で入り混じっていた。昨日は心の中で激しく罵っていた奈保子を、明日は苦しいほど恋しく思っている。ついさっきまで頭の中で際限なく溢れ出た奈保子への悪口が、つい数分後には感謝の言葉に変わる。二つの相反する彼女への思いが複雑に交錯し、縺れて崩れ落ちていくような感覚を僕はこの一年で何度となく味わってきた。
僕たちは風呂を上がるとしばらく館内を散策し、ライブラリーやテラスでドリンクを飲みながら体の火照りを冷ました。
最後の風呂に入り終えた僕たちは料亭へ向かった。小洒落た創作和食が次から次に運ばれてきて、風呂上がりに空腹の僕たちは大満足でそれらを平らげた。志帆は料理を口へ運ぶたびに幸せそうな笑みを浮かべて僕を見つめた。僕も同じような顔で志帆を見ていたのかもしれない。
食事を終え一服し、いよいよメインの洞窟風呂へ向かった。時刻は既に十時を周り、男湯には誰もいなかった。
こじんまりとした内湯に浸かり、大きなガラス窓の向うに見える中庭を見ながら僕は大きな幸せを感じた。静かな空間、気のおけない友人との会話、うまい料理と酒、綺麗な風呂、これらに勝る喜びはない。
こんな平穏な気持ちになれたのはいつぶりだろう? 志帆と別れ、二度に渡って奈保子に振られ、キャンペーン期間を全力で走り抜け、性機能障害に陥り、杏と別れ、奈保子と交際をはじめた。思えば志帆と別れてからというもの、僕は帰るべき港を見失った小舟のように頼りなく海の上を漂い続けていたみたいだった。
こんなに穏やかな気持ちになれるのは志帆がそばにいてくれるからじゃないのか? 僕の心が今正に求めているのは奈保子という憧憬ではなく、志帆という癒やしだった。
僕は脱衣所に用意された水着に着替え、洞窟風呂を覗いてみた。洞窟風呂の中は男女混浴になっていた。中は薄暗く、洞窟はかなりの大きさのようで、天井を支えるための支柱が均等に並び、網目状の空間は腰ほどまで温泉で満たされていた。長湯してものぼせないように、温泉の温度はぬるめに水で薄められていた。僕はどこかにいるであろう志帆を探して洞窟の奥へと進んだ。しばらく進むと水の流れる音が聞こえ、音をたどると滝のような岩場を見つけた。岩場の上にある小さな洞窟から水が流れてきている。水源を追って洞窟をさらに奥へ登ると、穴は思った以上に高く上に伸びていて、上に行くほど穴は細くなっていった。それ以上に登れないという位置を僕は確かめてから下に戻ると、そこには驚いた様子の志帆がいた。
「この洞窟風呂すごいね。この穴かなり上まで続いてるよ」と僕は興奮して志帆に話した。
僕らはそれから小一時間、洞窟風呂の暗がりの中で囁くように語り合った。
僕は志帆とプラトンの『イデアの洞窟』の話をした。我々の意識は本当の世界が作り出した影を認識しているに過ぎない、つまり人は自分の目で見た世界にしか触れることができないのだという話だ。だとしたら、僕たちはどのように生きるべきか? 僕はどのように生きたいと望むのか? より多くの物を見て、より多くの知識に触れ、より多くの経験を得て、自分の見ている影を豊かなものにしたいのだと、洞窟風呂の壁に写った自分の影を見ながら僕は志帆に言った。世界は自分で作るのだ。
すっかり身体がふやけてしまった頃に僕らは部屋に戻った。ミュージックプレイヤーでドビュッシーを流しながらベランダに出て二人でビールを飲んだ。
その後も僕らの会話は途切れることがなかった。志帆と話すことはいくらでもあるような気がした。たとえ会話が途切れたとしてもそこにはなんの気まずさもなかった。僕は純粋に彼女といられる時間に幸福を感じた。そして翌日東京へ帰った。
僕は旅行中の二日間、志帆の身体に触れることはなかった。奈保子という彼女がいながら志帆と二人で旅行に行くことについてはなんの後ろめたさもなかった。しかし彼女の身体に触れることは不適切であるように思えた。
☆
その後も志帆とは定期的に会うことになった。一緒にフェスに行ったり、飲みに行ったり、海外旅行にも行った。遠くに住み連絡もろくによこさない奈保子には知る由もなかったし、別に知りたくもないだろうから好きにさせてもらった。
六月、僕は最後のチャンスと意気込んでいた会計士試験に落ちた。そして八月までの予備校の授業料を返金してもらい、その金で一ヶ月ほど旅に出た。志帆のホーネット250にテントと寝袋を積み、西日本を気の向くままに走り回った。今思えば僕の人生で最も貴重な体験の一つだったと言えるだろう。
そして僕は名古屋の会計事務所に就職し、東京を離れる決意をした。奈保子との関係に決着をつけるために。
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