どうしてこうなってんのか?
私の父は会計士だった。父が会計士であることは私の自慢だった。そして家族7人を何不自由なく養う父を、私は尊敬していた。父親と同じ職業であれば、今の生活水準を保ち、それなりの幸福を得られる。自分もいつかそのような職業に就くのだろうと、漠然と考えていた。
皆が何一つ進路を定められていない中で、将来の目標が明確であることは、当時の私にとって誇りだった。「自分を持ってる」「やりたいことがはっきりしている」「しっかりしている」そういわれるのが心地よかった。高校進学に際し何の目標も持たない同級生たちを、私は見下していた。高校で簿記を取れば兄のように推薦で東京の大学に行ける。私はとにかく東京で大学生がしたかった。早くあの街を抜け出し、毎日が誘惑に溢れた、東京での楽しい大学生の一人暮らしがしたかった。その目標は固くゆるぎなかった。そのようにして私は、目先の心地よさのために、誰もが乗り越えるべき「仕事選び」という試練から逃げ続けた。
最初の違和感は簿記だった。つまらなかった。頭に入ってこなかった。でもこれを習得しなければ自分は大学へ行けない。受験勉強をしない人間が資格なしで大学へ進学することはできない。部活を終えて、疲れて帰って、毎日2時間勉強した。大学に生きたかったから。でも耐えられなかった。私が勉強できないのは父親の教え方がいけないからだと思った。
忘れもしない高2の11月、満を持して挑んだ2級に落ちた。受かったのは増田君だった。2月の2級で受からねば大学に行けない。部活を休んで毎日机に張り付いた。試験当日に父親の車で商工会議所まで送ってもらったのを今でも鮮明に覚えている。解き終わった瞬間に合格を確信した。そしてすべてから解放された気がした。勉強のストレスで生え際の産毛が亡くなっていた。合格通知を受け取った私は、もうこんな勉強は2度としないと固く誓って、ライターオイルとマッチを持って慣れ親しんだ河原まで行って、教材を全部焼いた。簿記の勉強がとにかく苦痛だった。
私には会計学の適性がない。あったらとっくに受かってる。もう10年経った。会計を初めて15年だ。何一つ習得できていない、院まで卒業したのに。それなのに、私が会計士にこだわる理由は何か?親の目?友人の目?他人の目?ここまで時間を費やしたのだから取らないともったいない?昔からの目標を達成したい?思い描いていた生活を手に入れたい?社会的な信頼を得たい?子供に会計士である自分の姿を見せたい?お金のため?いつか実家に帰るための権利を得るため?多分その全部のためだ。
そして、全部が「見栄のため」だ。一見もっともらしい理由に聞こえるが、全部歪んでいる。「楽しい」や「したい」が一つもない。ワクワクする要素が一つもない。それでいて目標を掴んだところで大金持ちにはなれない。私が20歳の自分に置いたマインドセット、「会計という嫌いな分野で、会計士という目標を掴むことができれば、今後自分が望むどのような分野でも目標を達成することができる」ということ。つまり私にとって会計士とは本質的に「なりたい自分になれる自信」を培うための「手段」なのである。当然ながら手段というのは一つじゃない。かつての私は、なりたい自分がいつどのように変化しても、それをつかみ取れるという自信が欲しかった。今、私にその自信はないのか?
ある。本気を出せば経営者になれると思っている。なぜか?会計以外の分野で自己実現を成し遂げてきたからだ。毎日思い続けてそれに向けて正しく努力すれば、そして継続すれば、どんな目標も達成できると真に理解している。であればもう会計なんて私には必要ない。ではこの「会計」というものを、自分の中の何と位置付けるか?今まで目標であった会計という職業、10年持ち続けたこの気持ちにどう折り合いをつけて前に進むべきだろう?その方法、ノウハウ、潔い諦めを私は知らない。経験したことがない。
自分が会計士にこだわる理由をすべて論破してみよう。
・人の目→いなかったら?知らなかったら?それによって左右される目標は真ではない。
・今までの時間→ほかにいくらでも無駄な時間はあった。これからの時間を無駄にしないためにも。
・お金と社会的地位→他にいくらでもある。経営者になればいい。
・実家→経営者になればいい
・なりたい自分になれる自信→もう持っている
よって、もう私は会計士にはならない。会計士になる必要は、今なくなった。
では私は何になるべきか?何になりたいのか?はっきりしているのは、金持ちになって、社会的地位を得て、8月に一カ月間のヴァカンスが取れるような仕事ということだ。それを達成するために私は、何らかの経営者にならねばならない。何の経営者になるのか?自分が興味がある方が良い。13歳のハローワークでそのヒントを探そう。
以上