2014年6月「振られる」
東京に戻ったあとも、奈保子のことが頭から離れなかった。やはり僕の予感は当たった。もう一度奈保子に会ったら、きっと僕の心は完全に奈保子に奪われてしまうだろうと、僕は本能的に感じ取っていたのだ。そしてその気持ちはもう後戻りできないところまできてしまっている。そのことを志帆にも伝えなければならない。
N市から帰ってから様子がおかしいと察したのか、その翌週には志帆の方から食事の誘いがあった。
志帆が前から行きたがっていた神楽坂のダイニングバーへ向かった。我々はビルの屋上にあるテラス席へ通され、店員に勧められたシャンパンで乾杯することにした。
僕は志帆の向こうに見える都会の狭くいびつな形をした夜空を眺めていた。志帆は志帆で「なにか言いたいことがあるんじゃないの?」といった表情を浮かべて僕を見ていた。
それぞれのパスタと二人分のマルゲリータが届いたところで、僕はシャンパンを飲み干し生ビールを注文した。
「先週N市で奈保子とカオルと飲んだよ」
「あら、良かったじゃない。みんな元気にしてた?」テーブルの真ん中に置かれたキャンドルの小さな炎が志帆の瞳の中で揺れていた。志帆は奥歯を噛みしめるようにして口を固く結び、じっと僕を見つめる彼女の瞳は少し潤んでいるように見えた。そんな志帆を見て、僕は言い出しかけた台詞を飲み込んだ。
「うん。飲んだ帰りにみんなで小学校によってね、奈保子といろいろ話して思ったんだ。俺は異常だってね」
「なにが異常だっていうの?」
「俺の価値観や考え方のことさ。どうしようもなく偏屈で凝り固まってる。奈保子のような普通の女の子と久しぶりに会話してみて思ったんだ」
「そんなの、あの子にアユムを理解できるだけの頭がないからじゃないの?」
「そうじゃないんだ。一般的に言ったら、奈保子が普通の女の子なんだ。俺は異常で、それに慣れてしまってるお前も、世間的に見たらやっぱり異常なんだよ」
「なぜ今更世間体を気にする必要があるのよ? あれだけ私に偉そうなことを言っておきながら、どうして奈保子みたいな女と少し話したからってそんな風に考える必要があるのよ?」
「奈保子だから意味があるんだ。奈保子が俺にとって特別な女の子であることは知ってるだろう? もちろん恋愛感情とかは抜きでな。かつての青春を共に生きた人に、あれほど理解されないってのはこたえるんだよ」
「そんなの、私と別れて奈保子と付き合いたいって言ってるようにしか聞こえないけど」志帆は今にも泣き出しそうになりながら言った。
「そうじゃないんだ。聞いてくれよ。俺は奈保子と話して、自分が異常であることに気がついたんだ。それですっかり自信もなくしてる。それから思ったんだ。そんな人間にこれ以上お前を付き合わせるのは申し訳ないってね。お前だって日頃から俺に思うところがあるだろう? 正直な話、今まではお前の言うことなんてそれほど真に受けてこなかったけどな、やっぱり間違ってるのはどうやら俺の方なんだ。お前も知ってると思うけど、俺にとってお前は恋人であるまえに大切な友人なんだ。それにお前はモテる。他にもいい男が周りに沢山いるみたいだし、これ以上お前を拘束してお前の女としての幸せを奪いたくないんだ」
僕はそう言ってビールをグラス半分ばかり飲み、タバコに火をつけた。吐き出したタバコの煙が明るく曇った夜空に消えてゆくころ、志帆が口を開いた。
「『俺が間違ってた。お前に申し訳ない』ってのはわかったわよ。でもお前は男として私を手放したくないという気持ちはないの? それでも私に一緒にいてほしいっていう気持ちはないの?」
僕は言葉が出てこなかった。あるべき論や理想論を語らせればいくらでも志帆を言いくるめることはできた。でも恋愛感情を持ち込まれると、僕はどうしても志帆を納得させることができなかった。それは僕の中の志帆への思いが、志帆の中の僕への思いよりも劣っているからだ。
必要以上の沈黙は回答しているのと同じだ。僕は慌てて答えた。
「そういう気持ちはもちろんあるよ」僕は志帆から視線をそらしてそう答えた。
「でもそれはあくまで俺個人の感情の話だ。俺たち二人の人間関係において何がフェアかを考えた時に、俺の感情を優先する訳にはいかない。そういうことも含めて、俺にはもうお前に一緒にいてくれとは言えない。お前の可能性を限定するようなことはしたくない。お前には本当に幸せになって欲しい。今後俺たちがどうなるかなんてわからない。でも一度は俺を離れてまともな男とちゃんと付き合ってみてほしい」
僕は嘘をついた。自分が悪者になりたくなくて、誰のためにもならない嘘をついた。志帆の言う通りだ。僕にはもう志帆と一緒にいたいという気持ちがないのだ。ただ志帆には幸せになって欲しい、もっとまともな男に大切にされて欲しい、その気持ちだけは本物だった。
「私は嫌だよ」と志帆は涙ぐんだ目で僕をにらんでそう言った。
「好きでもない男と可能性云々のために付き合うのなんて。私は好きな人と一緒にいたい。確かにお前に思うところはいろいろあるし、私に彼氏がいるって知ってて言い寄ってくる男もいる。でも私が好きなのはアユムなの。だから私はアユムと一緒にいたい」
僕はそれ以上何も言い返すことができなかった。この手の話し合いを血を流さずに終わらせようなんていう考えが甘かったのだ。自分が悪者にならず、相手を傷つけずに終わらせることなんてできない。
「お前がそう言うなら、俺も少しはまともになれるように頑張ってみるよ」と言って僕はその話を終わらせた。
九月の生暖かい風の中で、僕はぬるくなったビールを飲み干した。
☆
それから半年ほど、僕と志帆は交際を続けた。あの話し合いからしばらくは、それまでと何も変わらない週末を過ごしていた。経済的事情が許せばライブに足を運び、サブカル界隈で話題のSF怪獣映画を見に行ったり、近所の銭湯に行ったりして過ごした。
志帆と別れたあとは、「なぜ別れたのか?」という質問を各所で受けることになった。その度に僕は「完全な友達になってしまったからだ」と言った。仲が悪かったわけでも、何か決定的な出来事があったわけでもない。ただセックスの回数が減っただけだ。そしてお互いにお互いを異性として見られなくなってしまった。だから別れたのだと説明した。
別れは唐突にやってきた。2014年、三月の終わり、寝起きで機嫌の悪い僕に妙に突っかかる志帆と口論になった。そしてその言い合いの末、我々の男女としての関係が終わりを迎えたことをお互いに悟った。僕たちは「付き合おう」とも言わず交際をはじめ、「別れよう」とも言わず交際を終わらせた。僕にとっては実に理想的な、欧米スタイルの男女交際であった。
お互いに気が済むまで話し合うと、僕たちはちょうど見頃を迎えた桜を見に行った。神田川に覆いかぶさるように咲き乱れた満開の桜を、江戸川橋の上から二人で眺めた。ただお互いに男女としての関係が終わったというだけで、友人としての付き合いが今後も続くことは明確だった。行きたいライブがあればきっとお互いに連絡を取り合うだろうし、気になる映画があれば誘い合って見に行くだろう。僕は「また連絡するよ」と言って、彼女を有楽町線江戸川橋駅の階段で見送った。
☆
志帆と別れた僕は、週末の空いた時間を埋めるためにアルバイトをはじめた。近所のホテルのリネンの管理をするバイトで、実労働時間の割に給料がよかった。バイト終わりにはよくホテルの庭園を散歩して、ぼんやりと池を眺めながらタバコを吸った。
僕は奈保子に連絡を取るタイミングを見計らっていた。あまりすぐに連絡をするのも節操がない。志帆にも悪いし、奈保子にも悪い。謹慎として三ヶ月待って、彼女の誕生日に連絡してみようと思った。
僕は奈保子の二十四歳の誕生日を今か今かと待ちわびた。何度も連絡を取りそうな衝動にかられ、そのたびに理性でそれを制した。
そして待ちに待った彼女の誕生日に、僕は意を決して、満を持して、午前0時きっかりに彼女にLINEを送った。
「二十四歳の誕生日おめでとう。元気にしてますか?」
彼女からのLINEはなかなか帰ってこなかった。二十四歳の一人暮らしの女性が自分の誕生日を控えた前日の0時前に就寝するものだろうか? 奈保子はもう立派な社会人だし、明日も早いのだろう。僕はそう思って翌日の返信を待つことにした。
翌朝になっても連絡は返って来なかった。僕の頭に不安がよぎった。何かがおかしい。違和感を感じながら、僕はバイトへと向かった。
使用済みのダスターの入った袋を台車に放り込み、新しいダスターの束を各会場に配って回る。バイト中も奈保子のことで頭がいっぱいだった。昼休みになってようやく返事が来た。
「ありがとう。元気にしてるよ。アユム君は?」
「俺も元気だよ。彼氏できた?」
「できたよ」
その短い一文に僕の思考は完全に停止した。
なんだって??
「嘘でしょ?待っててって言ったよね!」
「なんかアユム君、勝手だよね…」
あまりのショックでそれからのことはよく覚えていない。とにかく一日中奈保子のことが頭を離れなかった。
この前会ったのは八月だぞ? たった十ヶ月前のことだ。どうして待てないんだ?
女の子という生き物を忌み嫌い避けて通ってきた僕に、彼女たちの心情などどれほど考えても理解できるはずもなかった。僕なりに導き出した答えは「女性には出産適齢期が存在し、種を残すために本能的に妊娠の可能性が高い選択をする」ということだ。少しでも早く確実な選択をするために、彼女たちに長期的に物を考えている暇はないのである。
もちろん僕はそんな生物学的な理由では納得できなかった。本能や感情を理性で抑制し、思考によって効用の最大化を図るのが人間のあるべき姿であると信じたい。生物学的に、本能的に、なんていう常套句は僕にとって言い訳にしか聞こえなかった。
しかしよく考えてみれば、僕も美和さんに同じようなことをしているのだ。つい一年前まで美和さんに夢中だった僕は、志帆の一言であっという間に彼女と恋に落ち、交際にまで至った。僕はそんなことなどすっかり忘れて、奈保子のことを恨んだ。
バイト終わり、とても一人でいられなくなってしまった僕は、アキラに連絡して新宿の東口にあるバーで話を聞いてもらうことにした。
アキラの入社祝いということもあって、一杯目はシャンパンで乾杯した。僕は二口でそれを飲み干し、バーテンダーにマティーニを注文した。もうどうにでもなればいい。ぶっ壊れて全部忘れたい。そんな気分だった。
九時前ということもあって店内は僕らしかいなかった。しかしそんなことはお構いなしに、僕は奈保子とのここ数年の出来事をアキラに説明した。そして今日何が起こって、今の自分がどんな気分かを聴いてもらった。
「信じられない。たった十カ月だよ? どうして我慢できない? どうすれば十カ月で彼氏ができる?」
「十カ月くらいあれば彼氏くらい余裕でできるよ。待ってるわけないだろ? はっきり言えるのはお前はバカだってことさ。そんなに好きな女なら何があってもその子を手放すべきじゃなかった。たとえその時彼女がいようと関係ないよ」と呆れたようにアキラは言った。
「でもそれが俺なりの正義だった。彼女がいながらそれを差し置いてほかの女の下へ走るわけにはいかない」
「恋愛に正義なんてものはないんだよ」
「でも自分がそうされたら嫌だろ?付き合ってる女性がいて、その子には憧れの人がいて、その憧れの人が振り向いてくれたからって一方的に捨てられたら嫌な気分になるだろ?」
「そんなの言い訳だよ。だったら彼女にちゃんと説明すればよかっただろ? 他に好きな人ができたから別れてくれって」
アキラが言うことももっともだ。僕には返す言葉がなかった。
僕はそれから数日間、自分を納得させるための言い訳を探し続けた。しかしどれほど考えても、彼女の心情など理解できるはずもなかった。女の子という生き物を忌み嫌い避けて通ってきた僕に、どうして奈保子の心情を察することなどできるだろう?
時間をかけて僕なりに導き出した答えは「女性には出産適齢期が存在し、種を残すために本能的に妊娠の可能性が高い選択をする」ということだ。少しでも早く確実な選択をするために、彼女たちに長期的に物を考えている暇はないのである。
しかし必死で絞り出したそんな言い訳も、僕の心を救ってはくれなかった。自分の正義を理解してくれる女性なんてこの世に存在しないんじゃないか? だとしたら俺は一生結婚できないな。一人でそんなことを考えてはふてくされていた。ただ自分が一番身勝手でどうしようもなく歪んでいるということも分かっていた。だからこそ、その時の僕はひどく落ち込んでいた。
なぜ女はそんなに馬鹿なんだ! そしてなぜ俺はそんな馬鹿な女に惚れてしまったんだ!
一度は手に入れかけた奈保子が、再び手の届かない所へ行ってしまった。しかしそんな感傷的な自分を楽しんでいるナルシズムが少なからず僕の中にはあった。結局のところ、僕はまだ子供なのだ。自分の中にある規律は道徳心ではなく「どうすればカッコイイか」なのだ。何がクールで、何がクールじゃないかだ。ああ、俺はこうやって一人になっていくのだろうなと、僕は思った。
おわり