2008年12月「七瀬の話」
その後僕と美和さんの間にはこれといって進展はなかった。二学期が始まってから本格的に受験勉強を始めなければならず、お互いにメールをやりとりしたり隠れて会ったりしている余裕がなかったのだと思う。
特に僕の場合は、失敗するかもしれない挑戦を美和さんに見られたくなかったという理由もある。失敗した時に合わせる顔がないからだ。受験がすべて終わったら改めて連絡をしようと思っていた。
☆
受験も一段落した十二月、残る高校生活をただただやり過ごすだけの日々が続いた。
進学が決まってしまえばもうこんな生活に用はない。僕は卒業に必要な出席日数を計算して、出席する必要のない授業はすべて欠席した。天気のいい日は体調が優れないと担任に一言声をかけ、午前で学校を切り上げ下校途中の公園で一人お弁当を食べた。図書館で好きなだけ本を読んで、家で好きなだけギターを弾いて、念願の自動車学校にも通い出した。すべてが充実していて、あらゆる緊張と焦りから解き放たれた時期だった。
思えば僕は、高校に入学した時からただこの瞬間だけを夢見て必死に耐えてきた。もうやりたくもない勉強をやらなくていい、もう大学に行けないかもしれないという恐怖と戦わなくていい、もう成績のために嫌いな教師に愛想良くしなくてもいい。僕の心に平安が訪れた。
そんなある日、僕が教室で「ノルウェイの森」を読んでいると、それに気付いた隣の席の七瀬が話しかけてきた。
「免色さん、村上春樹読むんだ」
「ん? この本の作者の名前? 有名な人なの?」
作者の名前なんて気にもせずに、ただ面白そうな本を読んでいただけの当時の僕は、村上春樹がどのような作家であるのかなんて知りもしなかった。
「今一番活躍してる日本人作家の一人じゃないかな。この前も村上春樹の本を読んでたから好きなんだと思ったけど、知らないんだね」
「あぁ、そういえばキャッチャー・イン・ザ・ライの翻訳者も村上なんとかって書いてあったね。どおりで文章が似てると思ったよ」
「私は結構好きなんだ、村上春樹。『ノルウェイの森』は面白い?」
「こんな面白い本読んだことなよ。村上春樹っていうんだね。覚えとくよ」
普段口数も少なく、クラスで目立つことがない七瀬がこんなに話しかけてくるなんて珍しいな、と僕は思った。
七瀬は積極的に友達を作ろうとしないタイプの女子で、クラスでもいつもどこか浮いた存在だった。高校生活最大のイベントである修学旅行を意図的に欠席するような女の子だ。だが亜弥と幼稚園の頃からの幼なじみであることから、亜弥とその周りの友人とだけは仲が良かった。亜弥がスクールカーストの中で高い位置に所属していたことから、誰もそんな七瀬を仲間外れにはしなかった。
七瀬は小説に詳しかった。友達が少ない分、彼女はいつも本を読んでいた。村上春樹の一件があってから、僕は本の中で読めない漢字があれば七瀬に聞いた。国語の授業でわからないことがあると、七瀬に聞けば教師の代わりに解説してくれた。
夏目漱石の「こころ」を授業で扱った時、物語後半の一文を抜粋して教師がこう言った。
「『何時も立て切ってあるKと私の室との仕切の襖が、この間の晩と同じ位開いています。』というのはつまり、『K』が『私』に対して救いを求めていたことになります。ところが『私』は先日と違い目を覚まさなかった。これは『私』が『K』に対して心を閉ざしていたと捉えることができます」
僕は教師の言っている意味がわからず、七瀬に聞いてみた。
「どうして『私』が目を覚まさないと心を閉ざしていることになるんだ?ただ寝ていただけじゃないか?」
七瀬はあきれたように僕に説明してくれた。
「この物語はフィクションなんだから、状況をどう表現するかは作者である漱石次第でしょ? 漱石は『私』と『K』の心の壁を、襖を使って表現したかったのよ。『K』が心を開いて『私』に救いを求めた。『私』は眠くて目を覚まさなかった訳じゃなくて、『K』に応えられなかったという状況を表現したかったの。隠喩って言うのよ。中学で習わなかったの?」
村上春樹もメタファーも、僕はこの頃に七瀬から教えてもらったのだ。
僕たちは互いに好きな小説を交換するようになり、貸す本がなくなったらUSBに好きなアニメや映画を入れて交換したりした。僕はヘッセの「シッダールタ」や岩井俊二の「リリィシュシュのすべて」や押井守の「攻殻機動隊」を、七瀬は今敏の「パーフェクトブルー」やアニメ「Serial experiments lain」を、互いに交換し合った。僕たちはお互いの好きな世界観が似ていて、教えてもらった作品はどれも見事にはまった。
そこで自分が感じたことや考えたこと、作品の優れた点などを二人で話し合った。そして二年半の沈黙が嘘のように、あっという間に僕たちは親友のように仲良くなった。七瀬と仲良くなれた最大の理由は、お互いの考え方や価値観を、物語を通じてストレートに話し合えたことだと思う。
そして二人とも見事に意見が合った。七瀬は決して不美人ではなかったが、高校生男子が口を揃えてかわいいと言う容姿でもなかった。性格が内向的で、外見にも全く華やかさがなく、一目で全く男に興味がないことがわかったから、その下心の一切ない気楽さも仲良くなった理由だった。
七瀬という話の分かる友達ができて、僕はまた学校へ行くことが楽しくなった。高校三年の十二月にまさかこれほど気の合う友達がいができるなんて思いもしなかった。
☆
二月に自由登校となってからは、カオルやイチロウと登校日の帰りにボーリングに行ったり、カラオケに行ったり、麻雀をしたりして時間を潰した。
いつものようにカツヤの家で徹夜で麻雀をしていると、イチロウが不意につぶやいた。
「明日バレンタインデーだ」
「明日というか、もう今日だけどな」カオルが言った。
「高校三年のバレンタインか。何もないことはわかってるけど、何か起きてくんないかなぁ」カツヤが吐き出すようにそう言った。
「何も起きないんだったら、こっちから動くしかねぇだろ!」
イチロウが急に大声を出すものだから、僕はツモった白を滑り落としそうになった。
「昔好きだった女子に手紙書いて逆チョコしようぜ!紙とペン持ってこい!」
全員が明け方のテンションで、誰も異論を唱える者はいなかった。各々が過去に好きだった女子を思い出し、真剣な眼差しで手紙を書き始めた。
僕の手が動いていないことに気がついたカオルが言った。
「歩は奈保子ちゃんに書くんだろ?」
「うん…」
僕は奈保子のいなかった高校3年間を振り返っていた。僕はまだ、奈保子のことを忘れられずにいた。
思えば亜弥に恋愛感情を抱きたくなかったのも、美和さんとの関係がずっと平行線なのも、僕の心の中にまだ奈保子がいらるからだった。僕は奈保子がいないこの3年間でも、1日も彼女の存在を忘れたことなんてなかった。そして「今日も奈保子のことを考えている」と毎日ふと気がつくのだ。
高校2年の冬にアドレス変更の連絡をしたメールが宛先不在で返ってきてしまって、彼女へ連絡を取ることもできなくなってしまってからも、奈保子はいつも変わらず僕の心の中にいた。いるはずのない日常の風景の中に奈保子を探し、ここに奈保子がいてくれたらと何度思ったことだろう。
今伝えなければ、きっと二度と伝える機会は巡ってこない。そう思って僕はペンを取った。
「奈保子へ。お久しぶりです。元気にしていますか?
突然ですが、奈保子は今でも、僕にとって特別な存在です。それはこれからも変わらないでしょう。奈保子は僕にとって、世界で一番かわいい女の子です。
突然ごめんなさい。ここを離れても、時々会ってくれると嬉しいです。」
手紙を書き終えた頃にはすっかり夜が明けていて、みんなとっくに眠っていた。僕も手紙をポケットにしまって一眠りすることにした。
昼の1時ごろになると、教習所へ行ってくるといってカツヤが飛び起きて出て行った。残された僕たちは、それぞれが書いた手紙の相手に連絡をとってみることにした。
カオルは千里さんに、イチロウは愛さんに、僕は奈保子の連絡先を知らないので、カオルが代わりにメールを送った。僕はカツヤの代わりに明菜に連絡した。
明菜からの連絡はすぐに返ってきた。今日は彼氏とデートだから、残念だけど会えないとのことだった。バレンタインデーなんだから、彼氏持ちの子が捕まらないのは当然だ。しばらくすると千里さんからも連絡があり、用事があるのでといって断られ、愛さんからの返信はなかった。
イチロウの思いつきで始めたことだが、妙なテンションで期待が膨らんだ分、落胆は大きかった。
バレンタインデーに特別なことなんて起きないのか、そう思っていると、カオルの携帯にメールがあった。奈保子からだった。
「カオル君久しぶり!今日は一日バイトだから無理だね。ごめんね!」
僕はすっかりやる気を無くしたが、カオルは諦めなかった。奈保子にバイトが終わる時間を聞いてみると、十七時には終わるという。彼女の家の最寄り駅(僕の家の最寄り駅でもある)でバイト帰りの奈保子を待ち伏せすれば、手紙を渡すチャンスがあるとカオルは言った。
他にやることもないので、僕たちはその案に乗ることにした。
待ち伏せしておいて手紙だけでは申し訳ないということで、ゲームセンターで奈保子が喜びそうな景品を手分けして狙った。カオルがボトル入りのガムを、僕がチョッパーのぬいぐるみをゲットして、教習所帰りのカツヤを待って駅に向かうことにした。
教習所から奈保子の最寄り駅まで、普通に移動していては奈保子を取り逃がす可能性があると判断した僕たちは、カオルの原付バイクに三人で跨がってカツヤを迎えに行くことにした。何も知らないカツヤは出迎えた僕らを見て驚いた。
「ここに乗るのか?!」
僕たちは四人乗りの原付で駅へと急いだ。時刻はもう十八時だ。早くしないと奈保子が帰ってしまうかもしれないが、四人も乗った原付は不機嫌そうに加速を拒んだ。中国雑技団の自転車を思わせる僕たちが、駅に続く坂道を笑えるくらいゆっくり登っていると、上から奈保子が降りてくるのが見えた。
僕たちは間抜けな姿を見られないようあわててバイクを飛び降り、奈保子がやってくるのを待った。
「奈保子ちゃん久しぶり!今日バレンタインデーだから、奈保子ちゃんにプレゼントをあげようと思って!」カオルがそう言ってボトル入りのガムを差し出し、僕も続いてぬいぐるみを手渡した。
「嬉しいけど、急にどうしたの?なんでカオル君だけバイクなの??」奈保子は笑いながら言った。僕たちの登場にかなり驚いてはいるものの、楽しんではくれたみたいだった。
隣町のスキー場からのバイト帰りらしく、彼女はスキーウェアを着ていた。気恥ずかしそうにニットから出た前髪を触る姿がとてもかわいかった。
「これ、奈保子に手紙を書いたから、良かったら読んで」と僕は言って手紙とチョコを手渡した。
「ありがとう」と混乱した様子で手紙を受け取った彼女を坂の下まで見送った。
「卒業後はどうするの?」と、僕が一番気になってることを聞いてみると、名古屋の専門学校に行くことになったと彼女は言った。
奈保子が行ってしまったことを確認してから再び四人でバイクに跨がった。
「なんかすごくいいことした気分だな!」イチロウがそう言って、みんなが頷いた。
なぜかはわからないが、全員が何かを成し遂げたように清々しい顔をしていて、それが妙に面白かった。僕は奈保子へ手紙を渡せたことで、心残りが少しだけなくなった気がした。
冬の寒空の下にも関わらず、僕たち四人の心はぽかぽかと暖かかった。
☆
次の登校日、バレンタインだったからということで、僕は美和さんからクッキーと手紙をもらった。この忌々しい高校生活ももうすぐ終わりだ。
卒業式を終え、念願の自動車免許を取得した。僕は毎日のように親の車を借りて一人ドライブに出かけた。自分の力でどこへでも行けてしまう権利を得たことが嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
卒業式が終わってしばらくは、お別れメールみたいなものが飛び交った。地元を離れる人間が、離れ離れになる友人に向けて、 今までありがとうと感謝の言葉を送った。
四月からM市の大学に進学が決まっていた美和さんからも、僕宛にメールが届いた。
「アユム君へ
本当は直接会ってお話ししたかったけど、引っ越しの準備で忙しいと思うから、メールにしました。
この二年間、仲良くしてくれて本当にありがとう。アユム君のおかげで、私は自分を変えることができました。
今まで内緒にしてたけど、私は中学生の時から五組のアツシ君が好きでした。
卒業式の日に告白したんだけど、彼女がいるからって振られちゃいました。
それでも告白できて今は本当にすっきりしています。
アユム君が私に勇気をくれました。ありがとう。
四月からは離れ離れになっちゃうけど、アユム君さえ良かったら、これからも仲良くしてほしいな。」
メールを読んだ僕はあまりの混乱に数日間返信する気が起きなかった。
・・・・・
「アツシ君て誰やねん!?」
居たたまれなくなった僕は、七瀬を連れて海までドライブに行くことにした。
あいにくその日は親の車を借りることが出来ず、七瀬に車を出してもらった。約束の日、若葉マークをつけたホンダのフィットに乗って七瀬が僕を迎えにきた。下道で海まで向かうことにした。
道中、僕は七瀬に、美和さんとのこれまでの経緯を洗いざらい説明した。
「それで好きなに告白できましたありがとうって、これどういうこと??」
僕が七瀬にそう言うと七瀬は表情一つ変えずに言った。
「まあ、利用されたってことでしょ。高校生なんだからそんなのよくあることだよ」
僕は気持ちに収まりがつかず、こう続けた。
「俺が言いたいのは、どうして本当に仲良くなろうと思ってる人間に対してそんな隠し事をする必要があるのかってことだよ。
亜弥の時もそうだった。それまでずっと仲良くしてたのに、突然好きな人ができて、俺には何も教えてくれずにそのまま用なしなんて、酷くないか?」
「確かに君には女運がないと聞いていて思う。でも亜弥の件に関しては悪いのは免色さんだよ」
「どういうこと?」
「亜弥は免色さんのことが好きだったんだよ。なのに君、亜弥に元カノさんの話をしたでしょ。しかもただ話すだけじゃなくて、写真まで見せてかわいいとか言ったでしょ。亜弥はあの時すごく傷ついて、もう大変だったんだから。それで君への当て付けに四組の石井君なんかと付き合ったのよ。まあ、今でも仲良くやってるみたいだから、結果として良かったけどね」
あの時の亜弥の気持ちを、僕は二年越しに理解した。そして同時に、たまらなく恥ずかしくなった。
「そうだったのか…悪いことしたな」
僕は言った。それ以外に言えることがなかった。
「でも、当時の俺はあいつを友達だと思ってたんだよ。あいつもそう思ってるって信じてたんだけどな」
「そう信じたかっただけでしょ?あんなに楽しそうに免色さんと一緒にいる亜弥を見て、亜弥からの好意を感じなかったわけないよね?まともな想像力のある人なら、せめて好きな人の話をする時くらいもう少し気を遣ってあげてほしかった」
七瀬は続けた。
「美和さんが君にしたことも、私からしてみれば、君が亜弥にしたことと同じだと思うけどね。これでチャラってことにしてあげれば?」
僕は今すぐ亜弥に誤りたい気分だった。
「ほら、もうすぐ海だよ」
車を停めて砂浜を少し歩いた。会話はなかった。僕は波打ち際まで行って、波が引く度に砂の中に消えていく白い泡をただ見ていた。そして水平線に向かって叫んだ。
「バカヤロー!」
振り向くと七瀬がぽかんとした顔でこっちを見ていた。
「恥ずかしいから急に大声出さないでよ」と七瀬は慌てて言った。
「海を見てたら叫びたくなったんだよ。でもなんて叫べばいいかわからなかったから、とりあえず『バカヤロー』って言ってみたんだ」
「バカは君だよ」と七瀬は呆れたように言った。
「わかってるよそんなこと」
そんなことはわかってる。
僕は帰りの車の中で、亜弥に連絡してみると七瀬に伝えた。そして道中、前を走る車の若葉マークが風で飛ばされるのを見て2人で笑い合った。
家に着いたとき、僕たちの乗った車の若葉マークも見事に無くなっていることに気がついた僕は大笑いした。
その日のうちに、僕は亜弥にメールを送った。
「もうなかなか会う機会もないと思うから、ここを離れる前にお前に伝えたいことがある。
高校一年の時、クラスに馴染めず独りぼっちだった俺に話しかけてくれてありがとう。
お前がいなかったら俺は学校に行くことができなかったと思う。本当に感謝しています。
お前と学校で話すのが毎日楽しみだったし、話すたびに信じられないくらい元気をもらっていました。見ているだけでも元気が出ました。
そして無神経な言葉でお前を傷つけたことを心の底から申し訳ないと思っています。本当にごめん。でも彼氏といるお前はすごく幸せそうでした。そんな姿からまた元気をもらったりしていました。
お前は俺が今まで出会った中で最高に面白い女子でした。お前は本当にいいやつでした。そして俺の最も気の置けない友人の一人でした。またいつか大人になってどこかで話ができるのを楽しみにしています。石井君と二人で世界一の幸せを手に入れてください。
三年間本当にありがとう。就職してもがんばれよ」
「よっ!久しぶり!
卒業してからちょっと経つけど、お前も元気に過ごしてるんだろうね。
いろいろ助けられたのは私の方だよ。相談するばっかりで全然話し相手になってやれなかったり、しょうもないことでメール送ったりして。
だけど真剣に私に向き合ってくれて本当に嬉しかったよ。雨の日に電車で話を聞きに来てくれたこともあったな。
マンガもたくさん貸してくれて。学校の帰りに駅で話したり、教室で一緒に居残りさせられたのも楽しかったな。私の高校生活は免色歩なしには語れない!
全部含めてお前には感謝してるよ。本当にありがとう!
ただ、昔お前が山の中にある意味のない面白い駅に連れて行ってくれた時に、次は私がどこかへ連れていくって言ったけど、それができなかったことが心残りだよ。
だからいつか、それができたらいいと思ってます。
自分の世界を持ってて、多趣味で物知りで、ギタリストで、変なしゃべり方で、実はいい奴な免色を、結構好きだったぞ!
私は世界一の幸せ者になるから、私に負けないようにお前も幸せになりなよ。
県外やら外国やら行ってもいろいろ頑張れよ!応援してるから。
またいつか」
それから一週間後、僕は十八年間住んだ生まれ故郷を離れ、S市で一人暮らしを始めた。
おわり