2007年7月「美和さんの話」
高校二年になった僕は、亜弥のいない退屈な学校生活にただただ毎日耐え続けた。それはただの退屈ではなく、はっきりとした苦痛とそれに対する怒りを伴うものだった。唯一の救いは放課後の部活だった。
今思い出しても、確かにあの時期は僕にとって辛いものだった。僕はよく授業中の教室から見える空を眺めながら、連絡が取れなくなってしまった奈保子のことを考えた。彼女は今ごろ何をしているだろう? どんな環境で何を感じながら、どんなことを考えて生活しているだろう?
気がつけば文化祭の季節が近づいていた。去年の文化祭は亜弥といたな、そんな風に思っていたとき、女子バスケ部の絵理子さんから連絡があった。
「文化祭終わりに、ヤスヒロ君と美和と四人でご飯でもいかない?」
女子バスケ部の美和さんといえば、学校でも指折りの美人だ。
一年の時から美和さんは非常にモテた。スポーツ万能でバスケ部では入部当初から不動のレギュラーとしてチームを支え、先輩からも後輩からも慕われる明るい性格が魅力的な女の子だった。しかしそんな明るい表情や言動の裏に、何かミステリアスな雰囲気を感じさせる類の美人だった。つまり誘いを断る理由が一つもないどころか、僕にとっては思ってもみないチャンスだった。
文化祭終わり、僕はヤスヒロと二人で校門で絵理子さんと美和さんを待った。
「どういう経緯でこのメンバーになったのか?」と聞くとヤスヒロは「美和さんがお前に興味があるらしいよ。俺は美和さんと同じ中学で絵理子さんと同じクラスってだけのただの数合わせだよ」とやる気がなさそうに言った。僕は俄然やる気だった。空回りしないように気をつけなければ、そう思っていると女性陣が到着し、僕たちは最寄りから一駅隣のファミレスへ向かった。
男女向かい合って席についてから、僕は今回の集まりの趣旨をそれとなく絵理子さんに尋ねた。
「美和がアユム君と話したいってゆうからヤスヒロ君に協力してもらったんだよ。ほら美和、何か話しなよ」
すると美和さんが照れたように言った。
「そんなこと言われても、緊張しちゃうな。絵理子とアユム君は中学の時同じクラスだったんでしょ?絵理子とアユム君が隣の席だった時に、宇宙人がいるかいないかってゆう話になって、アユム君がすごく熱心に宇宙人の話をしたっていうのを聞いて面白くて」
僕は思わず苦笑いした。
「懐かしいな。絵理子さんが宇宙人なんていないって頑なに言い張るから熱が入っちゃってね」
「それから、帰りの電車で時々ヤスヒロ君と一緒になるんだけど、その時もアユム君が不思議な話をしてるって聞いて。なんだろ、例えば『バスケットボールとは何か』とか、『どうしてリングにボールを入れるのが面白いのか』って、男子で話したりしてるんでしょ? 私そういう話が好きで、アユム君と話がしてみたかったの」
「男子で話してるわけじゃなくて、いつもアユムが一人で話してるだけだけどな」ヤスヒロが間髪入れずに言った。
僕は美和さんに「アユム君と話してみたかった」と言ってもらえたことが素直に嬉しかった。いきなりハードルを上げられたものだから、何を話せばいいかわからず始めはあたふたしていたが、会話はすぐに盛り上がって、気が付けば時刻は十時になろうとしていた。
店を出る前に僕と美和さんはお互いのメールアドレスを交換し、その日はお開きとなった。
美和さんからは時々メールが来るようになった。高校生活に絶望していた当時の僕は、美和さんからメールが届くたびに胸を弾ませ、その都度真剣に考えたり悩んだりしながら文章を打ち込み、早すぎず、遅すぎず、タイミングを見計らってメールを返信していた。
美和さんからのメールは質問が多かった。彼女が僕に興味を持ってくれていることが伝わってきて、僕も彼女の期待に必死になって応えようとしていた。特別な内容でもないのに妙な緊張感がある奈保子とのメールや、何も考えずチャットのようにやり取りすつる亜弥のメールとも違った。
質問の内容は、「アユム君にとって、友だちってなんですか?」とか、「大切にしているものってありますか?」とか、そんな平和なものが多かった。
僕は自分なりに誠意を込めて回答し、そのためにメールは長文になることが多かった。そして最後に「美和さんはどうですか?」と、同じ質問を返した。彼女が聞きたがっているその質問は、彼女が答えたがっている回答の裏返しだと思ったからだ。だから美和さんのメールも長文であることが多かったし、僕はそんな長文を寝る前に一人ベッドで何度も読み返すことが好きだった。
そのようにして僕たちは仲を深め、一緒に夏祭りに行ったり、部活帰りに近くの公園で友人たちに隠れて会ったりすることが多くなった。
実際に彼女という人間を知れば知るほど、当初の彼女を包んでいたミステリアスな印象は徐々に薄らいでいった。そして同時に、彼女の底抜けな明るさと誠実さが美和さんの最大の魅力であることを知った。
美和さんは僕の暗い高校生活を照らす光そのものだった。もっともクラスが違うため、学校で日常的に彼女と会話を交わすことはなかった。しかし廊下で友人たちと楽しそうに話す姿や、部活の時間に隣のコートから聞こえてくる彼女の声や、そういう何気ない日常から感じられる彼女の存在が、あの頃の僕の活力になっていた。
☆
僕たちは高校三年になった。
受験を控える高校生にとって実質最後の大会となるインターハイの地区予選前日に、僕は美和さんに応援メールを送った。美和さんがバスケットボールを好きな気持ちや部活にかける思いを、僕はことあるごとに彼女から聞かされていた。美和さんはキャプテンとしてチームを率い、県大会ベスト4という公立高校として申し分のない成績を残し部活を引退した。
気がつけば彼女と連絡を取るようになってもう一年が過ぎようとしていた。
高校最後の文化祭の夜、消灯後の誰もいない体育館のギャラリーで二人で話しをした。僕が貸した小説版「秒速5センチメートル」の感想や、部活も終わり残り少なくなってきた高校生活への思いや、卒業後のお互いの進路についての展望を話した。
八月は美和さんの十八歳の誕生日だった。美和さんが手書きの手紙が欲しいというので、僕は校正に校正を重ね一週間かけて手紙を書き上げた。それほど長い時間をかけて文章を書き上げるという経験は初めてであったが、彼女のことを思って文章を書くのは楽しかった。
「誕生日おめでとう。僕の方から手紙を書くのは初めてですね。
同級生がもう十八になるなんて、なんだか信じられません。僕にとって十八歳というのは、昔からすごく憧れの年齢でした。十八歳になれば車の免許が取れるし、親元を離れて独り暮らしを始められるからです。
十八年間お互いにいろんな人と知り合ったり関わったりしてきたけれど、その中で本当に親しくなれた友だちってきっと片手で数えられるくらい少ないと思います。それなのに僕たちはたった一年でずいぶん仲良くなれたと思います。今まで口にしたことはなかったけれど、僕はこの一年間で数えられないほど美和さんに精神的に助けられました。本当にありがとう。
感謝の気持ちを込めて、今日は美和さんに特別な話をしたいと思います。僕は一年前、まだ美和さんと連絡を取り始めて間もないころに「アユム君には好きな人がいますか?」と美和さんに質問されたことがあります。あのとき僕は適当なことを言って答えなかったけど、今日はちゃんと答えます。
僕の好きな人、それは僕にもわかりません。なぜわからないのかというと「誰かが好きだ」という気持ちが、今の僕にとって曖昧なものでしかない気がするからです。誰か特定の異性が好きだという気持ちが、特に僕たちくらいの年頃の人間が抱く恋愛感情が、ものすごく不確かなものであるように感じるからです。特定の誰かのことを毎日考えて気にしていればそこに好意を抱くことは容易いし、それが特別なものだと思い込むことも簡単なことだからです。
だから今の僕にとって「誰が好きなのか?」という問いや、「誰が好きだ」という答えには、多分あまり意味がないのだと思います。そういうやり取りが本当に楽しいものであることは僕も良く知ってますが、明日消えてなくなってしまうかもしれない感情に価値があるとはやっぱり思えないのです。そんな不確かなものに一つ一つ真剣に向き合っていたら、若さなんていくらあっても足りないし、もっと大切なものを棒に振ってしまうような気がするのです。
なんだか全然答えになっていなくてごめんなさい。でも僕にはそんな風に思えてしかたないのです。
最後に質問です。高校を卒業して生活する場所が変わっても、僕たちは今と変わらず連絡を取り合っていると思いますか? 美和さんと将来の話をする時、その未来の中にお互いの姿は見えないような気がします。十年後や二十年後も僕たちは仲良くしているかもしれないし、そのころには顔も思い出せないくらいお互いに遠く忘れ去っているかもしれません。美和さんとの思い出を忘れてしまうと思うと、すごく悲しいし、なんだかとても残酷な事のような気もします。だから僕は美和さんとの思い出をずっと忘れたくないし、その思い出を大切なものにしたいです。
要するに『卒業したらどうなるかはわかりませんが、これからもよろしくお願いします』ということです。
おわり」
僕と美和さんは付き合っているわけでもなかったし、お互いの好意を確認したこともなかった。二人で会っていることも限られた友人しか知らなかった。僕たちはお互いに、表面上はあくまで友達という関係を貫いていた。周囲に公表しなかったのも、そんな二人だけの特別な関係にいらぬ冷やかしを浴びたくなかったからだと思う。
☆
高校最後の夏休みになった。地元で一番大きな花火大会には中学の頃のバスケ部メンバーで行くというのが毎年恒例だった。今年はメンバー全員が地元にいる最後の年だからということもあって、僕はローリーやユタカと久しぶりに遊びに行けるのを楽しみにしていた。
時刻が十九時を回り、花火大会開催の合図がまだ明るさを残した夏の空に鳴り響く。僕は昔から花火大会の始まる前の夕暮れが大好きだった。
親に小遣いをもらい、友達との待ち合わせ場所に向かい、どこで見ようか、何を食べようか、誰と会うだろうか、そこで何かが起きないだろうか? 花火大会開始前の夕暮れには、そういう夏の楽しみのすべてが詰まっている。
「こんな風に地元の祭りに出られるのも今年で最後になるかもしれないな」
ローリーとカキ氷を食べながらそんな風に思っていると携帯にメールがあった。美和さんからだった。
「今日はアユム君の地元で花火大会だね。誰かと行くの?」
「中学のころのバスケ部と来てるよ。美和さんの家からはちょっと遠いから今日は来てないかな?」
「今お家で、行こうかどうか迷ってるんだ」
「美和さんの家からだともう着いたころには終わっちゃってるかもしれないよ」
そう連絡してからしばらく彼女からの返信はなかった。
美和さんの家は隣町のはずれにあって、駅まで車で二十分、そこから電車で花火大会の最寄り駅まで一時間以上かかる距離だった。
あたりが暗さを増し、花火が空に映えてきたころ、美和さんから返信があった。
「今から行こうと思うんだけど、少しでいいから会えないかな?」
僕は返事に困った。
美和さんが来てくれることは嬉しかったが、ローリーやユタカに二人でいるところを見られるとまずい。それにこんな地元の花火大会で誰かに見つかったらすぐに噂になってしまう。
何時ごろ到着予定かと聞くと、八時半には着くという。花火大会は九時までだ。三十分でいいから僕と花火が見たいと言ってくれている女の子を知らない街で迷子にさせるわけにもいかない。
僕は時間を見計らって「ちょっと出店で飯でも買ってくる」と言って友人たちと別れ、急いで駅前に向かった。
駅に着くと、人ごみの中で心細そうに僕の姿を探す美和さんがいた。彼女は僕を見つけると少し安心した表情を浮かべ、それから少し戸惑ったように言った。
「来ちゃった、ごめんね。迷惑だったかな…」
「全然そんなことないよ。来てくれてありがとう。よく間に合ったね」
そう言って僕は美和さんを人通りの少ない道まで案内した。慣れ親しんだ地元での花火大会だから、どの通りが人が少なくて、どこからが花火が見やすいかを僕は良く知ってしていた。
花火大会が終わる九時までの二十分間、僕たちは人気のない堤防の階段で二人で花火を見た。会話はほとんどなかったと思うが、僕は突然の出来事で気が動転していたため、何を話したのかもよく覚えていない。
最後の花火が夜空に散って、まだ祭りの余韻に浸る人ごみをかき分けながら、僕は美和さんの手を引いて駅まで歩いた。
改札で美和さんを見送った後、人混みがひどくて同じ場所に戻れなかったと言ってローリー達と合流した。
そうして高三の夏が終わった。
おわり