私にはいくつかの趣味がある。読書、ギター、映画鑑賞、バイク、音楽ライブ。どんなものでも同じように長く続けていると飽きがくるものだ。今回はそんな「飽和」についてまとめたいと思う。
【目的】MAX楽しむこと
私の趣味に対する姿勢は、人にはストイックに映ることがある。どうしてこんな時に無理を押してツーリングに行く必要があるのか?なぜわざわざ台風の日にフェスに行くのか?すべての目的は人生をMAX楽しむためだ。無理を押して私が趣味に走る理由は、その無理を上回る楽しみがあると確信しているからというシンプルな理由だ。使命感や探求心といった大それたものではない。
【結果】MAX楽しめなくなった。
経済学には、限界効用逓減という考え方がある。効用とはつまり幸福度や満足度のことであり、逓減とは徐々に減っていくという意味である。
ツーリングもライブも、回を重ねるにつれて1回あたりから得られる効用は減少していく(効用の総量=これまでの満足度の累計は増えるとしても)ということで、要は満足度は徐々に減っていくよという教えだ。もっと簡単に言えばたくさんやると飽きるよってことだ。
私の身に生じた具体的な趣味の飽和を書き出してみる。
・映画がつまらなく感じる
・ツーリングに心が踊らなくなった
・ライブに情熱を感じなくなった
・映画がつまらなく感じる。
私は昔から映画が好きだった。特に好きなジャンルはサイコホラー、スリラー、サスペンス、SFなどの、手に汗握る系やどんでん返し系だ。学生の頃は夢中になって映画を見まくった時期があるが、なまじ映画を見たせいで、映画の展開や落としどころが事前に予測できるようになってしまい、映画を見るのがつまらなくなってしまった。そこで「予想しないように、何も考えずに映画を見よう」と思って実践したら、何も考えないせいで鑑賞後に自分の中に何も残らないようになってしまった。映画鑑賞という趣味に飽和が訪れた。
・ツーリングに心が踊らなくなった。
バイクに乗り出したばかりの時は、ツーリングが楽しみで仕方なかった。わくわくしすぎて前日眠れなかったことさえある。しかし、私もバイクに乗るようになってもう10年が過ぎた。以前のように、ただ走るだけで得られた喜びが、このところ感じられなくなってしまった。それどころか、目的もなくただ走ることが苦痛になることもある。バイクは疲れる乗り物だ。バイクという趣味に飽和が訪れた。
・ライブに情熱を感じなくなった。
私は元々音楽が好きだったが、出身が田舎すぎて18歳以下の人間がひとりでライブに行くには時間も交通費もかかりすぎた。上京した私は堰を切ったようにライブに行きまくった。エリック・クラプトン&ジェフ・ベックに始まり、Mr.BIG、ラリー・カールトン、ラウドパーク、サマーソニック、メタルドミネーション、ブルーノートフェス、オズフェスト、ノットフェス、フジロック。
今まで見たバンドは軽く100を超える。私は見たバンドは必ず記録するようにしているので、機会があったらどこかで触れようと思う。
特に見ての通り、メタルフェスが私の生きがいだったと言っても過言ではない。アリーナの最前線でアーティストを舐めるように見た後、モッシュに飛び込み、同じ喜びを分かち合うファン達ともみくちゃになって走り回るのだ。あれほど血がたぎる瞬間を与えてくれるライブはメタルをおいて他にない。
最近では首都圏を離れ就職したせいもあって、なかなかライブに行く機会が減った。久しぶりにライブへ行っても、モッシュに飛び込もうという気持ちが起きない。かつて感じていた、爆音に体が勝手に反応するということがなくなってしまった気がする。ライブという趣味に飽和が訪れた。
【原因】楽しみ方は一つではない
かつての私が、今の抜け殻のような私を見たら何と言うだろう?「昔はよく行ったけど、最近は行ってないなぁ」「昔は好きでよくやったけど、もう久しくやってないな。今のうちにしっかり楽しみな」つまらない老婆心でそんなことを言う大人たちを、若かりし日の私は冷ややかな目で見ていた。「所詮その程度の情熱だったってことだろ?」と。自分はそうはならないと思っていた。
趣味が飽和したなんて昔の自分に言ったら、きっと今の私も、そんな冷めた目で見つめられてしまうのだろう。
なぜあれほど夢中になった趣味に、興味を持てなくなってしまったのか?環境が変わったからか?就職したから?家族ができたから?そういう外部要素は数えればいくらでもあると思う。しかし本当に好きなら、あの頃の自分が持っていたのが本物の情熱だったとしたら、環境の変化で冷めてしまうようなことはないと、今の私もそう思う。わかったようなことを顔をして「知らないって幸せだな、楽しいから」なんて言う大人にはやはりなりたくないと思う。
趣味に飽和が訪れた要因を外部に求めていたら、真の情熱など持ちえない。あの頃自分が持っていた大切なものが、本当に大切であったのだということを、私は自分自身に証明したい。それにはまず、趣味の飽和の原因を、自身の内側に求めることが大切だ。
趣味を楽しめなくなった、という人間の多くには、きっとその趣味を楽しむための自分なりの方法を持っていたことだろう。趣味が長くなればなるほど、その趣味に自分なりの「楽しみ方」が出てくる。この「楽しみ方」へのこだわりが厄介で、時に最大の効用を与えてくれるものでありながら、効用が低減していくとかえって趣味をつまらなくする要因にもなりえる。
趣味を長く続けていれば当然年を取る。私が経験を通して学んだのは、趣味には年齢相応の「楽しみ方」があるということ、そして「自分が年を重ねているのに、人間として変化しているのに、楽しみ方とその期待値だけが変わらず残り続けている」という事実だ。
ではどうするか?楽しみ方を変えるのだ。自分がかつての楽しみ方ではもう楽しめなくなっているという事実を認め、新しい楽しみ方を模索するのだ。ツーリングやライブは楽しいものだ。それ自体がつまらないものだなんて絶対に思いたくない。つまらなくなっているのは、その楽しみ方に飽きてしまった自分の方だ。今でもそこから感動と興奮を得るためには、楽しみ方をどのように変化させるべきだろう?
以上