人生の伴侶を定めるうえでのあるべき指標といえる大論「まさみ論」を提唱したYは、年を取るにつれて自分自身がつまらない人間になっていくことを病的に恐れた。そして一週間前、彼は27歳と11カ月という短い人生に自ら幕を下ろした。
表向きには事故死ということになってはいたが、Yは自ら命を絶ったのだと、彼の訃報を受けた時、瞬間的に僕は思った。
YはアプリリアのRS250で西伊豆仁科峠のコーナーに突っ込み、バイクと二人で仲良く谷底へダイブした。きっとその日の空は世界の終りのように晴れ渡っていて、富士山も駿河湾もグロテスクなほど美しく、はっきりと拝むことができたのだろうと僕は想像した。100万円のニハンで伊豆諸島上空をクルージングするにはもってこいの天気だ。あるいは現代に残された貴重なツーストを天海の山に放り込むのに適した日ごろだったのかもしれない。いずれにしても、自殺日和だったのだろう。懸けてもいいが現場にブレーキ痕はない。
Yはきっとこの日が来るのを待っていたに違いない。奴のことだから事前に下見に行って、どのコーナーに何キロで突っ込むかもあらかじめ決めたうえでのことだろう。土肥の安い民宿でその瞬間を楽しみに床へ着くYの笑みが目に浮かんだ。
Yとはもう十数年の付き合いになる。ただの十数年ではない。人生においてかけがえのない青春時代の全てを含む十数年だ。彼が死ななければならない理由について、僕には思い当たる節がありすぎて、どれが決定打となったのかはわからなかった。理由は何であれ、Yは死ぬべきして死んだのだ。そしてめでたく、憧れの27‘s CLUBの仲間入りを果たしたのだ。僕は彼がその名簿の片隅に名を連ねたことを、世界中の人間に教えて回りたかった。
「また一人偉大なロッカーが27歳という若さで死んだぞ!」と。
今すぐ飛行機を取ってアメリカのロックの殿堂を訪れ、Yがいかに偉大な男であったかを示すビラを町中にばらまいてやりたかった。NHKに電話してテレビでニュース速報を流してやりたかった。しかしロックの殿堂の最寄りの空港も、NHKの電話番号も僕にはわからなかったので、目の前のドリアが覚めてしまわぬうちにSNSの自分のプロフィールのコメント欄にこっそり書き込むだけに留めた。だいたいNHKに電話してニュース速報を流してもらったなんて話は聞いたこともない。
Yの死がテレビで報道されたとして、彼の肩書は一体何になっただろう?
「作家、思想家、哲学家、音楽家、実業家、冒険家・・・であるY氏が昨夜、交通事故で病院に搬送後、死亡が確認されました。Y氏は生前、ごく限られた分野における国内の第一線で活躍した現代的理想主義者で、代表作に「まさみ論」などがあります。我々はY氏が日ごろ通った居酒屋の店長に話を聞きました・・・」
Yが「まさみ論」を提唱したのは我らが年、2007年17歳の夏だった。。「まさみ」とは即ち、完璧な女性を意味する。すべてを兼ね備えた女性のことを、我々は「まさみ」と呼んだ。すべてとは即ち、あなた自身が求めるすべてである。
例えばある男性の理想の女性として、年下で色白で巨乳で背が低くてパッチリ二重の黒髪ボブカットで、趣味がサッカー観戦、好きな映画は「パシフィックリム」、好きな食べ物はたこわさ、好きなミュージシャンは10cc、好きな小説は「ムーンパレス」、地方出身の末っ子で、両親は公務員、ダブリン大学卒業の帰国子女でありながらの処女、ついでに母親思いで幼いころから台所に立つことを好み、働き者で家事全般が得意、おまけにセックスの愛称が抜群、という条件が挙げられたとしよう。
そのすべてを、その男の求める水準で、完璧に満たす女性、それが「まさみ」である。まさみの由来は当時Yが夢中になっていた人気女優の名前からとったものだ。
常識的に考えて、そのような女性と生きている間に巡り合う可能性は限りなくゼロに等しい。しかしゼロではない。我々はそのゼロではない可能性に心を躍らせるほどに若く、そして初心だった。
当時Yには付き合っている女性がいた。僕から見て、その女性はどう好意的に見積もっても「まさみ」には程遠かった。Yもそれは承知のことだった。だからこんな考え方が沸いて出てきたのだ。Yは言った。
「もし俺が今の彼女とこのまま10年付き合ったとする。年頃を見て結婚したとする。結婚して10年たったある日、俺の目の前に「まさみ」が現れる。俺はまさみを取る。それがお互いにとって最も有意義な選択だと俺は思う。だって俺にとっての全てを兼ね備えてる女だぜ?。どう考えてもまさみの方が一緒にいて幸せなのに、その時結婚している相手を選ぶなんて奴は頭がおかしい。偽善者とまでは言わないが、典型的に幸せになれないタイプの人間だね。
もちろん彼女にもその権利はある。俺と結婚して10年経って、「まさはる」だか「ジョニー」だかが現れたら、俺といるよりそっちといる方が彼女も幸せに決まってる。もしその時が来たら俺は甘んじて彼女との別れを受け入れるよ。
俺が言ってること間違ってるか?」
Yの言うことは間違ってない。僕はそう思った。今付き合っている女より良い女が現れたら、より良い女と付き合う方が良いに決まってる。だってその女の方がより良いのだから。もちろんそれは女性にも言えることで、誰にでもより良い方を選ぶ権利がある。表現の仕方に多少棘があるとしても、そして人間関係における大切な前提を蔑ろにした意見ではあるとしても、それは事実だった。すべての生き物はより良くなるために生き、より良く生きるための権利がある。
「でも、その時付き合ってる相手も含めての「より良い」行為にならなきゃ、その女は真のまさみとは言えないんじゃないかな? お前が彼女を振って、彼女を振ったことに多少なりとも何か思うところがあったら、それはお前にとって本当の「より良い」選択にはならないんじゃないか?」と僕は言った。
Yは眉間にしわを寄せながらこう言った。
「そんなの当たり前だろ。長年連れ添った彼女を自分の都合で捨てておいて何も思わないほど俺は薄情な人間じゃない。でも、それをすべて超越した存在がまさみなんだよ。彼女とどんなに良好な関係を築いていたとしても、子供が7人いたとしても、それをすべて差し置いてでも一緒にならなけらばならないと感じさせる女、それがまさみだ。どんなに長く一緒に至って、子供がいたって、他に好きな人ができたことを理由に別れる夫婦なんていくらでもいるだろ。
でもいきなり「ほかに好きな人ができた」ってのはあまりに不親切だ。だから俺は彼女にまさみの話をしたんだよ」。
Yにとって親切心とはいったい何なのか。Yの彼女がその話を聞いてどんな反応を示したのか、話の続きを聞かなくても容易に想像はついた。
「だって、早い段階でお互いに認識しておいた方がいいだろ? あえて言葉に出す必要はないかもしれないけどさ、俺は今の彼女が本当に好きだから、全部隠さずに伝えたんだよ。お互いにもっといい相手が現れたら、その時は綺麗に別れようって、それがお互いにとって最も良い選択だし、もっといい相手がいるとわかってる状態で付き合ってても、それはお前に失礼だろ?って、俺だってお前がもっといい相手を見つけたのに、それを黙って付き合ってもらうのは嫌だからって。
これは提案でも意見でもなくてただの事実だろ? なのにあいつ、話を最後まで聞かないでいきなり泣き出したんだよ。だからお互いがお互いにとって最も良い相手になれるようにこれから付き合っていこうねって話をしようと思ったのにさ。だいたい、そんなんで泣くってことは、自分よりいい相手が現れて自分が捨てられるってわかって付き合ってるようなもんじゃないか? それって俺に対して失礼だろ? じゃあなんであいつは自分よりいい相手がいるってわかって俺と付き合ってんだ? そんなの詐欺だろ? 好きな人には幸せになってもらいたいってどうして思えないんだ? だから結局、あいつは俺のこと本気で好きじゃないんだよ。俺はあいつが本当に好きだし、だからあいつには幸せになってもらいたいし、俺よりいい相手が現れたら甘んじてそれを受け入れて笑顔で別れてやるよ。でもあいつにはそれができないっていうんだ。俺の幸せのことなんて何も考えてないんだよ。ただあいつが俺と一緒にいて気持ちいいだけなんだ。俺はあいつに利用されてんだよ! なんかすげえ腹立ってきた!」
Yとはそんな男だった。言いたいことはわかる。ただそれを包み隠さず彼女に伝えることが彼女にとっての優しさでないことは17歳の僕にでもわかった。
「自分に非があるくせに本当のこと言われて怒るやつって何なんだろうな。別に人格否定してるわけでもないんだぜ? 自分のことくらい自分が一番よくわかっとけよ。ほんと、最近の若いやつって馬鹿ばっかだよな」
本当のことを言われて怒る人間が面倒であることも、最近の若いやつは馬鹿ばかりであることも、僕は概ね共感できた。しかし本当のことを言われて怒る人間の気持ちも想像できなくはないし、最近の若いやつという言葉を17歳にして好んで口にする人間もやはり利口とは言えないと僕は思った。だがYにだってそれはわかっていることだ。Yは自分の中のルールに、可哀そうなくらい忠実に生きた男だった。常にあるべき自分の姿を見定め、そのために全力で生きた男だった。
Yはいつもどこか生き急いでいて、ただただ楽しむことだけに精一杯な男だった。Yはそんな自分自身のことが大好きな男だったし、そんなYと一緒にいられる時間は僕にとっても何にも代えがたく最高に楽しい時間だった。
「俺は世界で一番幸せな人間だ。俺は誰より自分の楽しませ方を知ってるからだ」
Yは死をもって誰かに何かを訴えたかったわけでも、自らの人生に敗れたわけでもなく、どこまでも自分自身のために、自分自身を楽しませるために死んだのだ。そういう意味で、Yはどこまでも自分勝手な男だった。
「俺ってよく我儘って言われるんだけど、それ結構気に入ってるんだよ。我がままに生きるってことは、俺は俺だって意味だろ?」
そんなYの言葉を思い出しながら、駿河湾を見下ろす富士山を尻目に、僕は煙草をもみ消した。
☆
「病める時も、健やかなる時も、汝まさみを求めよ」これが「まさみ論」の神髄だった。
そんな完璧な女が本当に実在するのか? まともな想像力を持った成人男性ならまずそう疑問を持つことだろう。そんなものは子供じみた幻想だ。まさみなんて女はこの世に存在しない。解ったような顔をして偉そうに上から物を言う大人はそう言うだろう。かつての我々がそうであったように、無邪気な憧れから、可能性はゼロではないと希望を持つ青年もいるだろう。過激派のフェミニストなら、それは女性の人権に対する冒とくだと騒ぎだすかもしれない。まさみが存在しないことをどこかで前提としながら、それでもまさみを求めることを美徳とする一種の道徳的向上心である、と好意的に理解してくれる人間も少なからずいるかもしれない。
「まさみ論」がどのような性格の主張であるのか、人の数だけ理解の仕方があっていいと思う。ただ、Yの口から初めて「まさみ論」を聞いた時から、僕の中にはそれについての一貫した考え方がある。
「まさみ論」とは、Yの考える幸福の在り方を定義したものだと僕は思う。Yにとってのまさみとは、幸福を具現化した存在なのだ。美少女化した存在といった方が現代人にはなじみがあるかもしれない。まさみとはこの世のすべてのポジティブな要素を詰め込んだ夢である。まさみとは幸福であり、祝福であり、希望であり、憧れであり、平安なのだ。まさみと巡り合い、ともに生きることで、人生は完成するのだ。僕はYの言葉からそんなことを感じた。
問題なのは、まさみの存在は状況により変化し得るということだ。まさみの存在が一生変化しない人もいるだろうし、変化の多い人だと一月おきにまさみの存在は全く別のものになるかもしれない。
このような可変的で不確かなまさみは本当のまさみと言えるのかという議論も当然あった。まさみとは唯一無二の普遍的存在であるべきではないかという意見もそこでは生じた。まさみに変化を認めてしまえばまさみ一人一人のスペシャリティーは低下することになるだろう。
しかし、まさみとはどのような存在であるべきかは、本人にとってどのような女性がまさみであるかと同じように、当然その本人個人によって定められるべきものである。
まさみ論はまさみのあり方をまず本人個人に委ね、そのうえで本人は常にまさみを求めるべきだと主張した。
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僕にとってのまさみについて語ろう。
僕は想像力の豊かな女性が好きだ。女性に限った話ではないが、想像力が乏しい人間とはできればあまり関わりたくない。そして好奇心旺盛で、活発であること。一人の時間を大切にできること。自分の中に確かな軸を持ち、情熱をもって何かに夢中になれるようなタイプの女性が好きだ。
だが、そんなのはおまけでいい。僕が絶対に譲れない条件、それは1990年生まれのB型のふたご座で二人姉妹の妹であること。これは誰にも変えられない、僕の中の宿命的なまさみの条件だった。
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大学院を卒業した僕は、大手監査法人の名古屋支店に就職した。大手メーカーに常駐して毎日日付が変わるまで働いた。25で結婚し、名古屋市内にマンションを買い、その一年後に子娘が生まれた。800万のレクサスに乗り、週末には必ず一人で近所のスーパー銭湯に行った。僕はつまらない人間になった。自分で自分を楽しませられない人間になった。自分を楽しませられないから、誰を楽しませることもできない。それがひたすら辛かった。
おわり