2015月4月「ひかるさん事件」
僕はこの一年で二回、奈保子に振られた。それも「奈保子じゃなくてもいい」という訳のわからない男のためにだ。僕は全く納得がいかなかった。
「俺が今こんな惨めな思いをしているのは、全部あの馬鹿な女のせいだ。奈保子さえいなければ、俺はもっといい女と出会えていたはずなのに!」とさえ思った。奈保子を好きになったことを、僕は初めて後悔しそうになった。
これが最後のチャンスと意気込んでいた僕は、すっかり自信をなくしてしまった。もう奈保子を手に入れることは叶わないだろう。
一度は手に届くほど近くにいたはずの奈保子を、僕は永遠に失ってしまったと思った。だからこそ、自分を慰めるために奈保子への怒りをあえて言葉にして思考を満たしたのだと思う。
「馬鹿同士で勝手にやってろ!」奈保子にそう言ってやりたい気分だった。
そうして僕は、ついに奈保子も失い、会計士にもなれないまま大学院を卒業してしまった。
☆
意気消沈してアパートに引きこもった僕は、ひたすら受動的に映画を見続けた。それも「メメント」とか「バタフライエフェクト」とか、できるだけ頭を使うサイコサスペンスを好んで見た。
そんなある日、ローリーから久しぶりに連絡があった。近いうちに地元に帰ってくる予定はないか、という趣旨の連絡だった。
「中学の時、四組でテニス部だったひかるって子いたろ?
俺の彼女と仲が良くてよく話を聞くんだけど、今まで彼氏がいたことがないらしいんだよ。お前に今彼女がいないんだったら紹介してやろうと思ってな」
僕はすぐに約束を取り付け、荷物をまとめて実家へ帰省した。
話したことはないが、僕は四組のひかるさんのことをよく覚えていた。なぜならかわいかったから。
僕は胸を弾ませて、週末がやってくるの今か今かと待った。
Face Bookで彼女を探し、二三年前の写真を見つけたが、あの頃の透明感は全く失われていなかった。
「面白い子だから、歩とも気が合うと思うよ」
ローリーがそう言うのだから間違いない。僕は彼女の写真を眺めながら、二人の幸せな未来を想像してみた。
その淡い幻想の中で、僕たちはお互いを愛しあっていた。お互いの意見を手に取るように理解し、お互いがお互いを支え合い、世界の深淵を目指して二人で成長する姿があった。
もう奈保子の亡霊に悩まされることもない。俺は真の理解者を、人生の伴侶をついに見つけたのだ! そう思っていた。
☆
約束の当日、ローリーとその彼女が僕を車で迎えに来た。それからひかるさんを拾って、古民家を改装したという地元にしてはおしゃれなダイニングバーへと向かった。
「なんだかこっちまで緊張しちゃうわね。まあ堅い話は抜きにして、今日は飲みましょう!」
ローリーの彼女がそう言って皆で乾杯した。
「お久しぶりです、ローリーと由紀子さんの友人のアユムです。ローリーとはバスケ部で一緒で、由紀子さんとももう知り合って長いよね。よろしくお願いします」
「由紀子の友人のひかるです。由紀子とは高校のクラスが一緒でした。よろしくお願いします」
ひかるさんも緊張しているみたいだった。ローリーと由紀子さんは何とか場を盛り上げようといろんな話題を次から次へと僕達へ投げかけた。僕も二人の応援を無駄にしないよう、ユーモアを持ってそれに応えた。
「お休みの日とか何してるの?」と僕は訊いた。
「うーん、別にこれと言ってないかな」ひかるさんは苦笑いしながら肩をすぼめて言った。
「休みのとき何してるだろうね? ほら、この前言ってたヨガとかは?」と由紀子さんが慌てて会話を膨らませる。
「ヨガやってるって言ってたね。中央通りのヨガ教室だったっけ?」とローリーも会話に参加する。
「やってるって言うほどやってないし。まだ三回くらいだから」
「三回やってたら充分だよ。ヨガをはじめたきっかけは?」僕もこの会話を膨らませる。
「きっかけか、なんだろう。わからないな。ただ運動したかっただけ」ひかるさんは困ったように答えた。
そんなやりとりが小一時間続いた。ローリーがサイドに運び、由紀子さんがセンタリングしたボールを、僕が合わせてゴールに向かってヘディングする。由紀子さんがポストに切り込み、ローリーがノールックでパスしたボールを、僕がスリーポイントラインからリングへと放つ。由紀子さんがスクラムから出し、ディフェンスを引きつけたローリーがパスしたボールを持ってインゴールを目指して走る。僕は経験上、そういったパス回しからの粘り強い攻撃がいずれ相手の守備力を削り有効な打撃となることを知っていた。攻撃にテンポが生まれ、相手に隙が訪れることを辛抱強く待った。
しかし時間が経つにつれ、それまで僕たちを包んでいた微かな違和感が形を持って現れた。ひかるさんのディフェンスは崩れるどころか、始まった時よりも堅くなってないか?
ひかるさんがトイレに立った時に、僕は思わずタイムアウトを取った。
「ひかるさんていつもあんな感じなのかな? 全然響いてないよね?」
「おかしいわねぇ、いつもはもっと喋る子なのに。たぶん緊張してるでしょう。アユム君はこのままで大丈夫よ」由紀子さんは苦笑いしてそう言った。
ひかるさんが戻ってきて、ゲームは再開した。僕たちはその後も前半と同様、地道なパス回しでゲームを組み立てようとした。
僕は時折意表を突いたロングシュートを放ってみたが、ボールはリングだかポストを虚しくかすめた。
全員の顔に疲労の色が見え始めた。我々の必死の粘りも虚しく、ひかるさんの壁は崩れなかった。
そして試合終了のホイッスルが鳴った。アディショナルタイムもゴールデンスコアもデュースも延長戦もそこには存在しなかった。
状況をよく理解できていない僕は、トイレに行って少し気持ちを落ち着かせる事にした。なんでこんなにハマらないんだろう? 何かがおかしい。女の子とご飯を食べてこんなことになるのは初めてだ。
まあいい、ここで連絡先を交換して、また後日二人で会う機会をつくろう。一緒にドライブにでも行けばきっと打ち解けるはずだ。焦らずゆっくり仲を深めていけばいい。今までもそうしてきたじゃないか。
僕は気を取り直してテーブルに戻ると、三人は反省会をしていた。僕が席に付いても、三人は特に反省会を終わらせる気はないみたいだった。そしてローリーは、うーんと唸ってから、口をゆがめてこう言った。
「だってよアユムちゃん。なんか違うんだって」
「何が違うんだ?」と僕が聞くと、由紀子さんが続けて
「なんか、アユム君は違うんだって。何だろうね」と頭を捻って言った。
「そういうことか、全然ハマらなかったものね。何かが違うんだろうなという意識は俺にもずっとあったよ」と僕が言うと、ひかるさんが慌てて言った。
「アユム君がどうこうって話しじゃないんだよ。アユム君、かっこいいと思うし、今日もたくさん盛り上げてくれようとして、すごくいい人だなって思ったの。でも、なんだろうね。なんか、違うなって思ったんだ」
彼女の弁明は僕の疲労を一層重くした。
僕たち四人はそのまま、全員でがっかりしながら店を出た。帰りの車の中でも僕たちはほとんど喋らなかった。あれほど気を使ってくれていた由紀子さんでさえもう口を開くことがなかった。
結局僕とひかるさんは連絡先すら交換することなく、一言「じゃあね」と言って別れた。僕が期待していた「次回」は、もう永遠に訪れることはなかった。
ひかるさんが降りた車内でローリーが言った。
「いやぁ、ハードル上げすぎたのが良くなかったかなぁ。悪かったなアユムちゃん」
「私たちも変に期待しすぎたのかもね。それでひかるもうまく楽しめなかったのかも。ごめんね」
「いや、たぶん誰も悪くないんだ。ただひかるさんが俺にハマらなかったってだけだ。もちろんショックではあるけど、誰のせいでもない」
家について風呂に入った後も、うまく気持ちを整理することができなかった。
何が違ったんだろう? 今までこんなことはなかった。何がいけなかったんだろう?
考えても考えても気分が沈むばかりで、答えは出てきそうになかった。
☆
奈保子が元カノと寄りを戻し、頼みの綱だったひかるさんにも拒絶され、この時期の僕は今までにないほど落ち込んでいた。
僕があの飲み会を経てこれほど落ち込んだのは、今まで閉鎖的な世界で蓄積されてきた自分の中の歪みが、ひかるさんを通して浮き彫りになったからだ。
僕は相手に期待しすぎる。仲良くなることを期待しすぎる。仲良くなろうと意識しすぎる。意図的に仲良くなろうとするから、押し付けがましくなってかえって関係にストレスが生じてしまうのだ。誰かと仲良くなりたいという感情は、その誰かを知って初めて生まれるべきものであって、知り合う前に過剰な期待や使命感によって抱くべき感情ではないのだ。
そして相手と仲良くなろうとするあまり、僕は人間関係を構築する上で必要なやり取りをすっ飛ばし、いきなり核心に迫ろうとする癖がある。急いで自分を伝えようとして話が長くなり、相手の込み入った話にむりやり首を突っ込もうとする。誰が知り合って間もない相手の、独り善がりのだらだらとした長話とデリカシーのない追求などに好感を持つだろう?
僕は凝り固まった偏屈な思考とコミュニケーション能力に障害を抱えた社会不適合者だ。それなのにどうして今までこんなに自信を持って生きてこられたのだろう? それは周りの友人に僕という人間への理解があったからではないか? みんなが受け入れてくれたから、僕はその輪の中でのびのびと自分を表現することが出来たのだ。それなのに、人の優しさの上にあぐらをかいて、自分が他人よりも優れた人間である気がしていた。僕の自尊心が他人の優しさによって成り立っていることを、僕はこの時初めて思い知った。
このままでは、僕は一生誰からも必要とされない人間になってしまう。何かを変えなければ、凝り固まった自分を壊さなければ、そう強く思った。
おわり