障害者を見かけると、ドキっとする。そして数秒後、ドキっとしてしまったことに罪悪感を感じてしまう。
これは私が動物的に、本能的に彼らに非日常性を垣間見たことから生じる緊張であると私は考える。そして後から理性がやって来て、彼らも私達と”同じ人間”なのだと知らせる。”同じ人間”になぜ緊張を感じてしまったのかを理解できない私は、その内なる差別的な視線に罪悪感を感じるのだ。
先日テレビで、ブラジルの身体障害者が取り上げられているのを見た。彼は手足の筋肉が動かず、成長もしない病気を持って生まれてきたという。そして首が背中に向かって180度折れ曲がっている。重い病気を背負って生まれてきた彼だったが、奇跡的に足だけは動かすことができた。彼は膝を曲げ、胸を反り、後頭部を背中に密着させた状態で、股を開閉して横向きに歩くことができた。せめて首くらいは治してあげたいと家族は考えたが、首を直すことで脊椎を痛め全身麻痺になる可能性があるとのことで断念した。
彼は体こそ不自由なものの、幼少の頃より大変勉強ができた。大学に進学した彼は会計士の資格を取得し、今は家でできる範囲で仕事をしているそうだ。医者が考案してくれた靴のお陰で、彼は一人でも町へ出て散歩ができるようになった。しかし、最初は人々の冷たい視線に傷つくこともあったという。
私は思った。彼が町で散歩しているのを目にしたら、やはり私はあの「緊張」を感じるのだろうか? そして彼自身は、私がどんな風に彼を見つめ、どんな風に感じることを望んでいるのだろうか?
人は自分の意図しない状況に、想定外の出来事に恐怖を感じるものだ。誰もいるはずのないと思い込んでいた部屋に人がいたり、暗闇の中から突然人が現れたら、ドキっとするし、緊張を感じる。少し気のきく人であれば、相手に恐怖や緊張を与えないよう配慮することも可能ではあるが。
社会的マイノリティである障害者にも、同じことが言えるのではないだろうか。彼らは世界人口から見れば圧倒的少数で、しかも大体は障害者として決まった施設に入れられ、私達の暮らす社会から少し距離を置かれているように見られることもある。従って、見かける機会も、触れ合う機会も、非障害者と比べて圧倒的に少ない。
故に接し方というものがわからない。共学を初めて知る男子高校出身者のように。そして見かけること自体が私にとって想定外になってしまっているため、私は彼らに緊張を感じるのかも知れない。
しかし想像はつく。別に大した配慮など必要ないのだと。女性には優しくしなければいけないなんて決まりがないように、そしてその考え方が既に前時代的になっていることから象徴するように、障害者に特別な心理的配慮は不必要なのではないだろうか。
というより、相手が女性であろうと老人であろうと浮浪者であろうと、誰にでも平等に親切心をもって接するべきであって、「障害者だから」という特別な配慮が、また「障害者」というものすごく曖昧な範囲のくくりが、私に不要な緊張をもたらしているのかもしれない。
その人が障害者であろうとなかろうと、困っていそうと思えば手を差し伸べればいい。
彼らの抱える病気や障害を良く理解し、人としての正常な倫理観を働かせることが大切である。
2015年1月
以上