【考察】愛とは何か?

考察
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2010年12月12日 愛についての考察

誰もが経験したことがあるのではないだろうか、自分がある特定のものに対して抱く愛を客観的に、論理的に証明したいと。しかし、これには「自分の抱く愛を自分で認めることができない」という消極的な動機が含意されている。自分の抱く愛は自分でそれを認めるからこそ愛と呼ぶに値するものだと思うが、中にはいつまでもそれを認められずにその論証を待ちわび、愛の客観的論証によって救済される精神というのもあるのではないだろうか。

近年の若者は、性と愛を器用に分離して考える思想をもち合わせていることも珍しくない。だが本当にそれでいいのか。性欲は性欲として処理し、愛は愛としてまた別の人間に注ぐ。私はそうはしたくない。身も心も愛していると、心から言えるような女性との性交こそ最高級のものであるべきだ。人間は愛している相手でなくとも、容易に性交を行うことができる。そしてそのような行為は道徳に反するものであると無意識のうちに感じていながら、目の前の欲望を制御することできずに自分を偽ってしまうこともある。理性は欲望の奴隷となり、その事実を認める人間もいれば、認めない人間もいる。私はそうはなりたくない。ではどのような性交なら、完全に正当化されるのだろうか。先ほども上げたように、そこには「愛」というものが存在しなくてはならない。では愛とは何か。私の考える愛を「普遍的で不変的な無条件の好意」と定義したとしよう。無条件な好意、そんなものははたして存在するのか。誰かに好意を抱く時、その好意の対象には、その人物特有の特徴が少なくとも関わっているだろう。しかしこれが無条件になってしまえば、すべての他人を愛することと同じだ。ではすべての他人を愛していない人間には、誰も愛することができないのか、そのような愛を所持した人間は誰とでも性交を行うことができ、その行為を正当化することはできるのか。そのため、この「無条件」というものに条件をつけたいと思う。確実に矛盾している考え方ではあるが、その条件付き無条件とでも呼ぶべき「何か」を今のところそれ以外の言葉でうまく説明できないので、あえて「無条件」と呼ぶことしたい。

ではその条件とは何か、それは①その他人を認証する人間にとって、その他人がその他人であるための何かを有している状態、つまりその人間特有の何かを客観的に、あるいは主観的に認められる状態。その状態における、無条件の好意=愛であると仮定したい。

しかしここで、いかにその他者を他者とするのか、その他人をその他人たらしめているものは一体何であるのかという疑問が浮かび上がる。主観的には、それを感覚的に認めることは容易であるが、客観的には非常に難しい問題だ。その他者をその他者たらしめている何か、それはその他者を認識する人間の「記憶」であると私は考えた。しかし、たとえ人々の記憶がすべてなくなったとしても、その他者がその他者であり続けるということは事実だ。ではその他者とは何か、他者の存在をいかに証明するか、他者の存在など証明することは可能なのか?

その人を愛したいと望むのであれば、その人とは何かを考え続けなければならない。考え続けることも含めての「愛」である。

以上

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この記事を書いた人

平成生まれのアラウンド・サーティーです。30歳を迎えるにあたって何かを変えなければという焦りからブログをはじめました。このブログを通じてこれまでの経験や学びを整理し、自己理解を深めたいと思っています。お気軽にコメントいただけますと励みになります。どうぞよろしくお願いいたします。

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