【短編】2016年6月「老人と海と犬」

短編

「二十六歳の誕生日おめでとう。Nさんの一年が実り多き豊かなものになりますように。何者もそこに暗い影を落とすことのないように」
プールサイドのデッキチェアに寝そべりながら、俺はもうすぐやってくるNさんの誕生日について思いを巡らせていた。この日のパタヤは雨季にも関わらず気持ちよく晴れていた。

真上から気前よく注がれる日差しは、水色のタイルで作られたプールを美しく照らした。ちらほら見える客のほとんどは欧米人で、皆それぞれの余暇を楽しんでいるように見えた。健康的と言うには控え目すぎる体でボール遊びをするロシア系の女の子達、仕切りに母親の視線を欲する男の子とうつ伏せで体を焼く母親。本を読む者、ビールを飲む者。

ヴァカンス!俺はこれを求めてここに来たのだ。晴れた空、太陽、美しいプールにビーチ、ビールとタバコ、村上春樹とラリー・カールトン。申し分ない。自らの精神的疲弊を察して逃げるようにして日本を発ったが、やはりここへ来て正解だった。

Nさんに伝えたいことは山ほどある。しかしいざペンを取ると、そこには書くべきことなんて何一つないようにも思える。だいたいあの子に手紙を書いたところで、その効用を本当の意味で享受するのは俺なのだ。俺がどんなに深く思いを込めて言葉を綴ったとしても、彼女がそこから受け取れるメッセージはきっとクッキーのカスくらいの意味合いしか持たないだろう。時間をかけてクッキーを焼いても、彼女がクッキーに手をつけることはないだろう。そもそもクッキーとは口に入れるものであるということすら理解していない可能性だってある。

俺は箱の中のクッキーを目の前にした彼女が、不思議そうに小首をかしげる様を想像した。そして箱の隅のカスを指でさっとすくい、恐る恐る口へと運び、満足そうな笑みを浮かべて箱を閉じる。そこにあるのはただNさんのためにクッキーを焼いたという俺の喜びだけだ。
だったら自分のために書くだけかいて、彼女が咀嚼できる程度に噛み砕いたものをプレゼントに添えればいいか。そう思って読みかけの短編「バースデイ・ガール」に視線を戻した。 

「バースデイ・ガール」を読み終えてしまうと、俺は目を閉じてしばらくその物語の余韻に浸った。彼女は二十歳の誕生日に一体何を望んだのか。なぜそれは半分実現し、半分実現していないのか。 「誰でも二十歳の誕生日というものは覚えているものだ」とオーナーの老人は言ったが、果たしてNさんは自分の二十歳の誕生日を覚えているのだろうか?

俺は自分の二十歳の誕生日のことをよく覚えている。誕生日の前日、俺はいつものように昼過ぎにベッドから這い出した。日記を書いて一日の予定を簡単に考えた後、連絡をしてきたCを誘って二人でバーに行った。 石垣でXYZをご馳走になり、Cに街を離れることを伝えた。よくわからない笑みを浮かべて奢ってくれたCと別れ、十二月の冷たい小雨の降る中、濡れながら家まで歩いた。橋の上で川の濁流に消えていく雨粒を眺めながら、俺は二十歳の誕生日を迎えた。涙は出てこなかった。川の堤防でタバコを吸って物思いにふけった。家に帰って暑いシャワーを浴びてから、水をいっきにコップ二杯飲みほしてベッドに潜り込んだ。翌日はバイクで箱根の温泉に行った。

あれからもう五年経った。

五年で何が変わった?

プールサイドに漂う時間は恐ろしくゆったりと流れた。まだ一時間も経ってないのに、もう数時間も横になっている気がする。水着も体もすっかり乾いてしまった。

俺はプールの縁に腰掛け、足を水に浸した。それからゆっくりと頭まで潜り、数メートル先の対岸まで泳いだ。プールの水はこの日差しですっかり温くなっている。

再びデッキチェアに戻り、体を拭いて本の続きに取りかかる。ふと気がつくと濡れた足に小さな蝿が数匹群がっている。プールサイドの気温が上がって虫が出始めたのだろう。気にせずに文章に目を戻すが、蝿の数はみるみる増えていき、やがて全身を多い尽くすほどの量となった。チャーリブラウンの友達のピッグペンみたいに。読書どころではなくなったので、俺は虫除けを取りに一度部屋まで戻り、タバコを一本吸った。

ビーチサイドにもプールがあったことを思い出し、天気が崩れないうちに様子を見に行くことにした。

ホテルを出てウォーキングストリートを渡った海辺にそのプールはあった。夜は海を見ながらディナーを楽しめるレストランにもなっている。プールには誰もいなかった。従業員や清掃係も退屈そうに暇をもて余していた。

俺は海が見渡せるデッキチェアに荷物をまとめ、貸し切りのプールでひと泳ぎすることにした。大小二つのプールがあり、大きい方は水深二・五メートル、小さい方はジャグジーになっている。大きいプールでは全く脚がつかず、通りで誰もいないわけだと納得した。脚がつかないプールで泳ぐのは思いの外疲れる。平泳ぎや背泳ぎでプールを何往復かした頃にはすっかり疲れてしまった。

バーでビールを買ってデッキチェアに腰掛け、木陰で油を売っている従業員に習って海を見ながらタバコを吸った。左手には島へ行くためのフェリー乗場へ繋がる大きな桟橋が伸び、その奥に見える山には街のランドマークとなる「PATTAYA City」と書かれた大きな看板が見えた。桟橋付近には大小何隻もの船が停泊していて、ビーチの沖合いはウィンドサーフィンやパラセーリングを楽しむ人で賑わっていた。

しばらくの間そんな風に遠くの景色ばかりを眺めていたが、ふと前を見ると数メートル先で男が寝ていた。男はビーチとプールの間の草むらに放置され朽ち果てたボートの上で、太陽が燦々と降り注ぐこの昼間から悠々と昼寝をしている。一瞬距離の近さにヒヤッとしたが、プールサイドはビーチよりも数メートル高く作られており、簡単には乗り越えられそうにないコンクリートの壁で隔てられていた。同じく昼間から悠々とデッキチェアでビール片手にタバコを吸っているのを少し申し訳なく思った。

男は上半身裸に紺のワークパンツのようなものを履き、やせ形でよく日焼けしていた。歳は三十代後半にも見えるし、老人にも見える。日焼のせいで年齢が掴めない。仕事は何をしているんだろう?家族はいるのか?

そんな風にしばらく男を眺めていると、視界の左から浜辺に若い男が現れた。若いと言っても三十代くらいだろうか。こちらもよく日焼けしているが、先程の男に比べたら明らかに若い。男はサーフボードのような板を、先端に取り付けられたひもを持って引きずりながら現れた。ロングボードほどの大きさだ。板は青く塗装されていて、サーフボードのようなフィンはついていない。板の中腹には用途不明の四角い出っ張りが付いている。

何を始める気だろう?と興味深く眺めていると、若者に続いて今度は犬が現れた。ちょうど舞台の下手から役者が登場するように、犬は若者と共に悠然と視界の中央へと向かう。俺は思わず拍手を送りたくなった。タイの犬といったら痩せた雑種と相場が決まっている。しかしその犬は遠目から見てもはっきりと分かるくらい確実なシーズーだった。しかも毛は短くトリミングされている。

俺は犬のことなんてよく分からないが、実家でシーズーを二匹も飼っていたからシーズーのことなら多少は分かる。シーズーは他の犬種と比較して毛が抜けにくく室内で飼いやすい。一方毎日ブラッシングをしてやらないと毛が絡まってみすぼらしくなる。毎日のブラッシングが面倒なうちの母親は、毛が伸びると犬をトリマーへ連れていき、犬種が分からなくなるくらいツルツルに毛を刈ってしまう。おかげでうちの犬にはいつもシーズー最大の武器であるモジャモジャで愛らしい毛並みというものがなかった。一見チワワのような別の犬といった感じだ。

とにかく、その若者の後ろを従順そうに付いて歩く野良犬のようにたくましいシーズーは綺麗にトリミングされていた。

若者は板を浜辺に置き、犬をその場に待たせ、草むらで何かを探しながらボートで昼寝をする老人に話しかけた。便宜上昼寝の男は老人とする。老人は目を擦りながらしぶしぶ起き上がり、ボート付近で何かを捜索しだした。二人でパドルを探していたらしい。老人がパドルを二本手にすると、両端に水掻きが付いている方を若者に手渡した。老人は草むらに転がるサーフボード(のような板)を引っ張り出し、若者と二人で浜辺に立った。二三言葉を交わした後、老人はサーフボードを海面に浮かべた。濡れることに何か不都合があるとは思えなかったが、老人は足の先まで一切海水に浸けることなくちょこんとボードの上にしゃがみ、慣れた様子で左右交互にパドルで水を掻き、器用に沖へ出ていった。

きっと沖に停泊している自分の船に向かったのだろう。老人の姿はみるみる小さくなっていき、やがて彼の所有するであろう漁船らしき船の中へと消えていった。

俺はその後老人がどんなアクションを起こすのかを固唾を飲んで見守ったが、変化らしき変化は何も起こらなかった。船が出航する訳でもなく、老人が再び姿を現す訳でもなく、ただただ平穏なパタヤの海が退屈そうに日々をやり過ごしているだけだった。
あの老人は船上で生活しているのかもしれない、と俺は思った。漁船は古いがあちこちに補強があり、つぎはぎだらけの屋根と壁で覆われていた。男一人で生活するには十分に住まいとして使用できそうだった。パタヤの貧困層の生活事情は知らないが、一昔前のマカオを描いた小説に住所を持たない船上暮らしの少女が出てきたのを思い出した。

日がな一日放置されたボートの上で昼寝をし、腹が減ったら魚を釣り、日が沈む頃船へ戻って床に就く。ひょっとしたら彼はそんな生活をしているのかもしれない。はたまた彼は遠洋漁船の船員で、一年ぶりの休暇を満喫しにパタヤへ戻って来たものの、長い船乗り生活のため船上でしか夢を見られなくなってしまったのかもしれない。

いずれにせよ、目の前に提示されたそのような新世界は俺を興奮させた。人の数だけ生き方がある。

浜辺に残された若者とそのバディーであるシーズーも、老人に続いて海へ出ていくようだ。若者は青い板を波打ち際に浮かべ、四角い出っ張りに腰掛けると、後に乗るようにとシーズーに合図した。シーズーは波を怖がりながらも板に飛び乗り、しばらく様子を伺うようにくるくると辺りを見渡してから、自分のあるべき姿勢を見出だしたようだった。

両端に水掻きのついたパドルを操り、若者とシーズーは沖合いへと漕ぎ出した。若者はちょっとコンビニにでも行くような気楽さで、シーズーは緊張した面持ちで尻も付けずにきりりと立っている。俺は誰もいない家で寂しさの余りぶるぶると震えて丸くなっている我が家のシーズーを思った。世界にはこんなにたくましいシーズーがいるのだと、うちの情けない犬に見せてやりたかった。やがて彼らの姿も小さくなっていき、沖に停泊している船の一つに横付けすると、二人で中へ乗り込んだ。

現在実家で飼っているシーズーは二代目だ。同じシーズーでも初代と二代目では性格も見た目も全然違う。
初代との出逢いを俺は今でも覚えている。俺がまだ小学校に上がる前のことだ。保育園からの帰り道、俺は道端に転がるメガネを見つけた。先生や友達のいる手前その場で拾うことはできなかったが、好奇心旺盛だった俺はメガネのことが気になって気になって仕方なかった。落ちてる(しかも度付きのレンズが入った)メガネを見るのが生まれて初めてだったからだ。

先生や友達と別れ家に着くと、俺はすぐに荷物を置いてメガネを回収しに走った。小雨の降る秋の午後だったが、俺は傘もささずにメガネへと走った。メガネはまだそこにあった。なるべく人目に付かないようにこっそりメガネを拾い、服の裾でレンズを拭いた。レンズには薄く色が入っていて、落ちた衝撃からか片方に少しヒビがあった。俺は今すぐメガネをかけたい衝動にかられたが、メガネをポケットにしまって家まで走って帰った。家の居間に誰もいないことを確認して、こっそりメガネを取り出したとき、部屋の隅に白いケージがあることに気がついた。中には犬のぬいぐるみが入っている。どうしてぬいぐるみがこんな立派なケージに入っているんだろうと不思議に思ったその時、中の犬が動いた。小型犬なんて生き物を知らなかった俺は目を丸くしてケージを覗き込んだ。それが初代との出逢いだった。その後メガネをどうしたかなんて全く覚えていない。

名前はポッケ。誰が名付けたのかはたぶん名付け親自身も覚えていないと思う。白とグレーの毛並みが綺麗なオスのシーズーで、ポッケは祖母の部屋の広い縁側で飼われることとなった。俺が小学校に上がると、よく祖母が通学路の途中までポッケを連れて迎えに来てくれた。祖母がリードを放し、俺が「ポッケ!」と大声で呼ぶと、数十メートル先から元気よく駆け出し、俺の腕の中で顔をペロペロ舐めた。同級生にも上級生にも慕われる自慢のペットだった。

そんなポッケは俺が中学二年生の時に死んだ。死因は塩分の過剰摂取による肝不全だった。食欲が亡くなり、便の異常を感じた母親が病院へ連れていくと、もう長くないと言われた。しばらく入院することになったが、その後も回復の兆しを見せず、今夜が峠だという連絡が入って病院まで引き取りに行った。祖母の寝室で力なく横たわるポッケを見ていると、思わず涙があふれた。ポッケとの思い出が次々と蘇ってきて、家族みんなでポッケに感謝の言葉を贈った。

二代目は俺が実家を出て独り暮らしを始めることを切っ掛けに、働き者だった母を気遣って親父が連れてきた犬だった。犬種はやはりシーズー。白と茶色の毛並みが可愛いメスで、先代に比べるといくらか顔が整っていた。名前はランちゃん。ランちゃんは専ら母親が世話することになり、最近の小型犬らしく室内での生活を許された。食事も一緒、リビングでくつろぐ時も一緒、寝る時は両親の寝室で一緒に寝た。そんな風に甘やかされて育ったものだから、この犬は犬としての威厳みたいなものが完全に損なわれていた。とにかく寂しがりやで、いつも誰かがそばにいないと落ち着かない。

俺が実家に帰って両親が外出していると、遊んでくれと言わんばかりに俺の部屋に入ってくる。よしよしと二三回撫でてやって机に戻りパソコンに目を向けると、今度は俺の膝に前足を載せ、上目遣いでクンクン鳴く。構ってほしくて仕方ないのだ。そんなうるんだ瞳でクンクン鳴いて見せても無駄だ、俺は忙しく甘ったれには厳しいたちなんでね。そう言って奴を抱え、階段を下り一階に放置する。お前は一人で遊んでいなさいと。俺が机に戻ってしばらくすると階段の下できゃんきゃんとわめき出す。あまりの騒がしさに耐えかね迎えに行ってやると、階段の下でぶるぶる震えているのだ。会いたくて会いたくて震えるとは正にこのことだ。なんて情けない犬だと、侮蔑の眼差しで奴を見下ろすが、そんなことは奴にとってどうでもいい。ただそばに誰かがいてくれて、面倒を見てくれればそれでいいのだ。奴には犬としての誇りもプライドも、そして犬として生きる意味も哲学も思想も持ち合わせてはいないのだから。 

それでもこうして一緒にいることを望まれるというのは嬉しいものだ。俺が久々に帰省するといつも飛び跳ねて喜んでくれるし、家に帰ると必ず玄関先で出迎えて指をペロペロ舐めてくれる。東京に戻るときはその空気を察してか、普通に外出する時よりも気持ち寂しそうな表情を浮かべてじっと俺の目を見つめてくれる。我が家の可愛いペット、ランちゃん。なついてくれれば悪いものではない。なついてくれればだ。なついていなければその辺の情けない犬と同じで、特に俺の心を動かすこともないだろう。

だがたとえ生き物としての価値観に相違があったとしても、俺は彼女が死んだらきっと悲しい気持ちになるのだろう。

俺はいったい何を求めているのか?

そんなことを考えているうちに、若者とシーズーが船から姿を表した。再び二人で青い板に乗り、浜辺に戻ってくる。シーズーはさっきとはうってかわって落ち着いた表情で板に腰を下ろしている。板が砂浜に乗り上げると、若者は先に降りてシーズーに板から降りるよう促す。しかし犬のくせに足を濡らしたくないのか、シーズーは波打ち際でさえ降りることを拒み、訴えるように若者に視線を送った。若者は波が来ない位置まで板を引きずり、シーズーは無事上陸した。

若者が板を草むらに寝かせ一服していると、先程の老人が乗った漁船が浜辺に近付いてきた。船底が浜辺に乗り上げないくらいの距離で漁船はエンジンを止め、老人がデッキにある錨を持ち上げ砂浜めがけて放り投げた。古めかしい漁船とは対照的に錨はピカピカのダンホース型アンカーだった。一般的にイメージされるU字型の錨と違い、ダンホース型は鋭い二本の返しが付いている。U字型と比べダンホース型は砂を掴む抵抗力が強いらしい。深夜のテレビ番組で見た知識がこんなところで思い起こされるとは。

老人が砂浜に落ちた錨を手繰り寄せると、ダンホース型アンカーは見事に砂に沈みその効力を発揮した。老人は綱を引っ張って船を浜辺へと寄せる。そんな作業が二三回繰り返された。シーズーは草むらに逆さまに置かれたボートの下に潜り込み、せっせと穴を掘っていた。

船が浜辺に乗り上げると、老人は肥料が入っているような大きなビニール袋を担ぎ、船の上から砂浜に放り投げた。若者は袋の中身を確認し、老人と何やら会話を交わした。

夢中になって穴を掘っていたシーズーがボートの下から出てきて、体を震わせ砂を払った。そして若者の下にてくてくと歩み寄ると、まるでそれが自分に与えられた最後の一仕事であるかのように、片足を上げて袋にマーキングした。シーズーが用を足すのを見届けた彼らは満足そうにどこかへ去っていった。やはり彼らの業務はシーズーのマーキングによって無事完結したらしい。
 
俺はすっかり温くなったビールを胃に流し込み、タバコに火を付け水平線を眺めた。

五年前なんて、Nさんにとってはもうなんの意味も持たない、遠く微かな過去になっているのだろうと俺は思った。望遠鏡を手に取り、水平線の向こう側に沈み行こうとしている過去を「あれは確かに存在したのだ」と確認しないわけにはいかない人間も世の中にはいるのに。

あとがき

パタヤでのゆったりとした時間を楽しんだ俺は、タイ最終日の夜をバンコクで過ごした。日本料理屋で捕まえたサラリーマンのお勧めで、お土産を買いに大きなスーパーへ向かった。

CDもたくさん貸してもらったし、Cには何か特別な物を買って行ってやりたい。そう思って広い店内を散策していると、おもちゃ売り場でタケコプターを見つけた。

いや、見つけたというより、目が合ったというほうが正確かもしれない。その瞬間俺はタケコプターを買うことを激しく求めていたし、タケコプターも俺に買われることを求めていた。そしてそれが手に取るように俺には分かった。我々は極めてタケコプター的輪廻によってめぐり会い、タケコプター的衝動によって互いを求めあった。

よってここに「タケコプター」を授ける。それから「全くもって使途不明の、謎の布状の何か」も買ってきた。もし使い方が分かったら大至急連絡してほしい。どちらもタイのドラえもんオフィシャルグッズだ。

Cとタケコプターにとっての一年が実り多き豊かなものになりますように。何者もそこに暗い影を落とすことのないように。

2016年6月29日
免色歩

記事の内容が気に入りましたらポチッとしていただけると励みになります。

ブログランキング・にほんブログ村へ

短編
スポンサーリンク
シェアする
この記事を書いた人

平成生まれのアラウンド・サーティーです。30歳を迎えるにあたって何かを変えなければという焦りからブログをはじめました。このブログを通じてこれまでの経験や学びを整理し、自己理解を深めたいと思っています。お気軽にコメントいただけますと励みになります。どうぞよろしくお願いいたします。

免色 歩をフォローする
明日、雨が止んだら、出かけよう
タイトルとURLをコピーしました