どこから話せばいいのだろう。長いようで本当に短かった3週間が過ぎ、僕は明日、ここニューヨーク、ロングアイランドを後にする。出発のための荷造りも大体終わり、あとはミツさんと6時にジムに行って筋肉をいじめにいじめ抜いた後、アレックスに別れを告げ、明日の朝ここをチェックアウトする。それから飛行機が落ちないことを祈るだけだ。
数週間に及ぶ恥かきウイークを何とか切り抜け、僕は自分を更なる高みへといざなうためニューヨーク州立S大学への3週間の短期海外研修へと旅立った。
7月31日、Hに別れを告げた後、俺は家で少しの睡眠をとってから荷造りに取り掛かった。何を持っていけばいいかよくわからず、スーツケースに適当に荷物をぶちこんだ。(その割にはこっちへ来てから困ることはほとんどなかった)6時にタクシーを呼び、ギターの弦を切ってうつぶせに立てかけておいた。必要のないコンセントは抜き、パソコンを眠らせた。冷蔵庫の中を整理し炊飯器の中のご飯を一気に平らげ、あまった桃はタクシーの運転手にあげた。思ったより道路と駅が込んでいたので新幹線をひとつずらすことになった。東京駅で成田エクスプレスに乗り換え、ドビュッシーを聞きながら「1Q84」を読んだ。窓の外は知らないうちに暗くなっていて、派手派手しく輝く電光掲示板の上の月がきれいだった。成田駅はそのまま空港につながっていて、建物は大きくきれいな割りに人は少なくがらんとしていた。バス停でホテルのバスを待った。バス停には沢山の外交人がいて、それぞれ自分のホテルのバスへ乗り込んでいった。俺が予約したホテルのバスに乗ったのは俺だけだった。中では中年男性2人が会社の海外出張について話し合っていた。バスは広い空港の敷地内をぐるぐる回り大きな門を抜け高速道路へ入っていった。バスの人気のなさと運転手の幸薄顔からてっきりビジネスホテルのような安いホテルに泊められると思っていたが、ホテルは思ったよりも高そうで フロントの態度もポーターのエスコートもすばらしいものだった、といっても一人でそんなホテルに泊まるのは初めてなのだが。荷物を置き、外のポストに手紙を入れてからカップラーメンとポップコーンとお酒を買って、魔女の宅急便を見ながらゆっくり食べた。風呂に入ってから彼女に電話をかけ、335号室があることに感動して、テレビを見ながらお酒を飲んで、醒めてきたころに眠った。
8月1日、さわやかな朝食を済ませ、飛行機にのる準備をしてから空港行きのバスに飛び乗った。バスは昨日と同じような大きな門で検問を受け、同じようにぐるぐる回って空港の中に入って行った。15分前に集合場所に着いたが、知っている人が1人もいなかったのでトイレに言って靴を履き替えた。戻ってくると前に大使館で見た、ヒッピーみたいなロングスカートをはいた女の先輩を見つけた。受付でパスポートを渡し、なんとなく同じ大学と思われる人たちと一緒にいることにした。高橋先生がやってきて人数を数えてからやっと誰が仲間で誰がそうでないのかがわかった。スーツケースを預けるため長い列の後ろに並ぶと、カイがようやくやってきた。小さな子供をつれた夫婦、それを列の外から心配そうに見届ける姑、スーツケースを1人でいくつも運んでいる人、小さなかごに入れられ頼りなげに吠える犬、面白い征服を着たどこかの国のスチュワーデスや始めての海外旅行に少し興奮を隠せない人間なんかが、空港の中にカオスを作り出していた。前に研修の説明会で見たことのある金髪の先輩が話しかけてきた。そこで向こうでの部屋や食料、授業の内容や単位の問題について適当に話した。彼らは二人で申し込んだらしく、タカさんとノリさん、と呼ばせてもらうことにした。
いくつもある訳のわからないゲートを通って、何度も何度もパスポートを見せてからターミナルで搭乗を待った。先輩二人は急いでタバコを買いに行き、俺はカイとお菓子とジュースを買いに行った。飛行機に乗り込むと俺の隣は先生とカラフルなナイキのスニーカーを履いた先輩だった。先生は俺と席を替わってくれて、俺は窓側の席に移って、スニーカーの先輩はさっきのヒッピースカートの先輩と俺の隣でしゃべっていた。飛行機が動き出しフライトアテンダントが救命具使用の説明を始めた。
次にここへ戻って来る時は三週間後か…
同じようなところをぐるぐる回り出発の準備をしていた。外にいる整備士さん達に先輩達と一緒に手を振った。飛行機はまるで体育の授業の用に行儀よく滑走路に並び自分の順番を待っていた。そして俺たちの番になると飛行機は勢いよく加速し、少々無理矢理観が否めなかったが、何とか飛び立った。14時間の長い戦いが始まった。しばらく外の景色を見ていた。初めての機内食を食べて、ベストヒットUSAを見ていた。雲の上の景色はとても幻想的で、いつまで見ていても飽きないものだった。したに見える雲はまるで本物の綿のようだった。空には昼間から月が出ていたが、それはだんだん沈み、雲に埋もれ、美しいオレンジ色に鈍く光りはじめた。疲れて寝てしまうと、外は知らないうちに暗くなっていた。星がきれいだった。きれいな星空を見るといつも、世界にはこんなに多くの星があるのかと思い知らされる。めがねを持ってきてよかった。しかし道具を使わなければ物の本当の美しさがわからないというのは悲しいことだった。流れ星をいくつか見て、そのたびに願い事をした。機内食の小さな巻き寿司を食べてから映画を一本見ると外は明るくなり始めていた。飛行機はすでにアメリカの上を飛んでいた。どこまでも続く森に長い道が数本通っていて、その道沿いに小さな町がいくつか見えた。とてもさわやかな朝だった。そして俺にとっては特別な、アメリカで迎える最初の朝だった。だがそこに暮らす人々にとってはきっといつもと同じ平凡な朝だったのだろう。そう考えるのとわくわくしてきた。俺は2009年の8月を、人生に一度しかない18歳の夏をこのアメリカに賭けたのだ。少し進むと森も消え、大きな農場が広い大地にまるで風呂場のタイルのように敷き詰めてあるのが見えた。それぞれの農場の隅にはとてもかわいらしい家が見えた。しばらくすると大きな街が見えてきた。ナビの案内によればそこはたぶんデトロイトだった。こいつぁロックシティだぜと思った。またしばらくするとニューヨークが見えてきて、飛行機はロングアイランドと思われる大きな島をぐるっと回って空港の滑走路に向かって高度を下げていった。窓から見える家はどれもさきほど見て来た家とは雰囲気が違い、白い上品な壁に、どの家も大きなプールを持っていた。飛行機は14時間の長い長い旅を終え、よろめきながら「びたーん」と滑走路に着陸した。そしてきた時と同じようにぐるぐる回ってターミナルへ向かった。窓の外に広がる景色は、一言で言うなら「グラセフ」だった。
飛行機から降りると、当たり前だがそこはもうアメリカだった。最初の入国審査では、何ともだるそうにガムを噛みながら仕事をしているグラサンのおじさんにパスポートと指紋をチェックされた。それからスーツケースを受け取り、数人で賑やかに雑談をしているおじさん達がいるゲートに行ってまたパスポートを見せると、「なんちゃら~」と言われたので取り合えず「Thank you!」と言っておいた。空港の外には大学のバスが迎えにきていた。空には雲一つなく、気温はからっとした暑さで日差しがとても強かった。すべてが新鮮だった。バスに乗り込むと寒いほど冷房がかかっていて、誰かが寒いから止めてくれというと今度は蒸し風呂のような暑さになった。バスは高速道路を西に向かい、運転はとても乱暴だった。反対車線に見える車は日本では見られない物ばかりだった。ダッチヴァイパー、C6コルベットにコルベットスティングレイ、F430やガヤルド。街に走っている車のおよそ4割が日本車で、ヒュンダイも珍しくなかった。信号は交差点にたてられた柱から伸びる電線にバナナの様にぶら下がっていて、風が吹くたびに揺れていた。バスは炎天下の中1時間以上走り続け、2時ごろやっと大学へ着いた。と思ったらまた大学の敷地がバカでかく、バス停をいくつか通りすぎてやっと俺たちがこれから住むであろうアパートにたどり着いた。建物は想像していた以上に新しいもので、芝生もきれいに刈ってあった。受付みたいな建物に入って部屋の番号を確認し鍵を渡された。受付を済ませている人達を待っているあいだ、壁に貼ってあるプリントやパンフレットを見ていたが、辞書なしでは何が書いてあるのか全くわからず、その文章は俺にとって全くなんの意味も価値もないものだった。これが三週間たったあとには俺にとって意味のある文章になっているのだろうか?と思った。日本にいる数人の友人にメールを送った後、自分たちのアパートへ向かった。
俺のアパートはB塔で部屋は306のDだった。306のCという先輩がいたので一緒に行った。塔の入り口は重い扉が2枚もあり、厳重に閉ざされていた。入るにはカードが必要のようだった。裏口に回るともっと重そうな鍵あなのついた扉が二つあったが、俺たちのもっている鍵では開きそうになかった。しばらく先輩と外をうろうろしていると偶然B塔の中から人が出てきて中に入る事ができた。すれちがった時にその人の香水の匂いが鼻を刺した。これが白人女性の香りか…。あまり美人ではなかったが。部屋は三階で、階段の扉がその建物の中で一番重く、後にジムに行った時には片手であけられないほどだった。窓も何もないじめじめした階段を、重いスーツケースを抱えで一段一段登った。自分たちの部屋に入ると中ではすでに誰かが住んでいるようだった。俺はてっきりワンルームアパートみたいなところに一人暮らしだと思っていたが、その部屋にはダイニングキッチンが一つ、トイレ洗面所付きの広いバスルームが二つ、ダブルルームが二つにシングルが二つという構造になっていた。俺の部屋はDで部屋を開けると中は泥棒が入ったとか乱闘があったどころの騒ぎではないレベルに散らかっていた。部屋は十畳ほどの奥に長い長方形で、真ん中の壁に窓が一つ、その前にエアコンが一つ、それを挟むように両サイドにベッドが二つ、ベッドの前に机が二つ。部屋のドアは左側についていて、その右側には棚が一つとクローゼットが二つあった。その部屋には明らかに誰かが住んでいて、どちらの机もベッドもめちゃくちゃにされていた。とにかく服や下着が散乱し、靴が幾つも放り出され、ひとりぼっちの靴下くん達が隅っこにひっそりとたたずんでいた。先輩の部屋は隣のCで、バッシュを履いたアジアンマンが二人、上裸で話をしていて、俺たちが来るとその片割れのマルコメ君が急いで服を着て荷物を持って出て行った。残った片方は「ん~ 入ってくれてもかまわんよぉ~」的な事をいっていたので先輩は中に入っていった。俺は自分の部屋のはずのところでしばらく途方に暮れていたがどうしようもないので残ったアジアンにいろいろ話を聞いた。彼の名前はナイジェルで、中国人だった。年は後でわかった事だがそのときは19歳、俺の一つ上だった。先輩は大学4年の21とか言っていた。彼の言うことにゃ俺たちはもうここの住人だから好きに暮らすがよろし、何かあったら聞いてくれてもかまわんよとのことだった。俺は勇気を振り絞ってつたない英語で話しかけた。「Where should I sleep tonight?」「隣で寝ればいいのさ」「But, the room is too dirty to sleep .」「ああ、こんなもん全部勝手に片付けちゃってかまわんよ」と言って部屋を一緒に片付けてくれた。といっても俺の使うベッドと机の上にある邪魔な物を全部住居人の方へ移しただけだが。おかげでやっと俺は横になることができた。「Where did he go?」と聞くと「土日だから実家に帰ってるよ、明日か明後日かえって来るからそれまで自由にやるといい」と言っていた。
俺たちはその後買い物に行くことになっていた。寝具も食器も食料もバス用品も全部買いそろえなければいけなかった。三時半に外に出て車を待っていると一人のアジアンが近づいてきた。日本人だった。俺たちより一ヶ月ほど前にここへ来たのだが、日本人がいないので久しぶりに日本語をしゃべったと言っていた。さっき受付にいたSLASHみたいな髪型の女の人が車で現れ、何往復かして俺たちを近くのTARGETというスーパーまで連れて行ってくれた。シボレーのなんちゃらとかいうステーションワゴンに乗っていて、運転は乱暴だった。スーパーはバカでかく、何でも売っていた。カインズホームとツタヤとセイユーとニトリとエイデンを足して2で割って天井をバカ高くした感じだった。そしてカートがバカでかかった。頑張ればHとKとYさんと俺が乗る事のできるくらいの大きさだった。定員はみんな違ったデザインの赤いTシャツを着ていて、赤ければ何でもいいみたいだった。日本ではただの紙切れにしか見えなかったドル札が初めて意味のある物に変わった。そこで必要な物を買って車を待っていると、さっきの日本人に会った。彼女の名前はランさんといって岡山大学の四年生だと言っていた。これからここで一年暮らすらしい。話し方が美穂さんに似ていたので出身はどこかと訪ねると、中国生まれの岡山育ちといっていた。だから彼女は中国語も日本語もぺらぺらで、俺たちから言わせれば英語もぺらぺらだった。またわかんないことがあったらいつでも聞いてもらってかまわんよーと言っていた。不安だらけの俺たちにとってはとても頼りになる存在だった。大学に帰るとSLASH通称クリスティーナにお礼を言ってアパートに戻り、先輩とケロッグコーンフロスティを食べてから風呂に入った。水は一応溜めることができたが浸かると水があふれ出し、バスルームがびしょびしょになってしまった。スーパーで買ったボディシャンプーを使おうと思ったら間違えてコンディショナーを買ってしまったらしい。バスルームに置いてあった誰かのを勝手に借りた。髪の毛が信じられないほど抜けたのであがった後にしっかり掃除をしておいた。バスルームにあるトイレの便座はいつもキンキンに冷え切っていて、心も体も凍えるはめになった。それから日本の物に比べ位置が高く座りにくかった。あとトイレットペーパーどっち向いとんねん!なんぼほど取りずらいねん!!と言って毎日戦ったのも今では懐かしい思い出だ。それから化粧水を持って来るのを忘れて最初の何日かは大変だった。特にすることもないので明日の予定を考えながらまだ顔を見たことがないルームメイトのテレビを勝手に借り、適当にザッピングをした後にMen In Blackを見た。もちろん英語、字幕はなし。さっぱりだった。そして寝た。
次の日朝9時頃起きた俺はコーンフレークを食べてすることもないので持ってきたグレートギャツビーを読んでいた。先輩はなんだか不安な面持ちで入り口でぐずぐずしているので一緒に外でも行きますかと行って散歩に出かけた。しばらく歩くと前からカイがやってきてもう他の先輩達は先に駅から街に向かったと言っていた。俺たちがまだ来ていないと思ってカイは迎えに来てくれたのだ。三人で駅まで向かった。自動券売機での切符の買い方がわからず駅員もいないので困っていると、カイが先に行ったグループの先輩の℡番号を聞いておいたのでそこにかけて聞く事にした。この時初めて俺達はこのMという3つ上の男の底の浅さを思い知ることになった。電話をかけて聞いた方が早いじゃないすか、すぐ電話しましょう。というと奴は海外の電話料金は尋常じゃないみたいな事をぐちぐち言い出した。だいたい四年のくせに何の役にも立たないあんたのせいだろ。。。。とか思いながら俺が電話をかけ、カイに代わってその先輩に事情を説明してもらった。「よしおっけこれならだいじょぶだ~」といって切符を買おうとすると「あ~このRound tripって往復のことだ~なるほど~」とまるで世紀の大発見でもしたような口調で俺たち一年に説明し出した。「んなこたわ~っとるわこのボギャーゴルァアアーーー!!!」といってブチ殺しても無罪を勝ち取る自信はあったが、まだ知り合って間もなかったので放っておくことにした。きっとカイも同じ気分だったろう。無事切符を買い電車を待っている間駅の近くのセブンで朝食を買うことにした。日本のセブンイレブンに比べ看板も店も暗い感じで不のオーラを放っていた。電車に乗ってニューヨークシティに向かった。電車の中ではガタイのいい黒人の駅員が改札鋏というやつをカチカチならして近づいてきた。「まだこんな事やってるんだ、疲れないのかな」とか思いながらとりあえず切符に印をつけてもらった。窓の外には、良く見る黄色のスクールバスがところ狭しと並べられた駐車場や、大きな野外スポーツ施設、壊れた車や廃墟に描かれたグラフィティ、グラセフに出てきそうな工場の屋上、派手な看板、どこまでも続く森、Led zeppelinのジャケットのようなアパートが見えた。どれも俺にとっては新鮮な物だった。終点のペンステーションに着いて、俺はとりあえずトイレに行った。トイレに行く途中で大きな広間のようなものが見えて、ここでニック・キャラウェイやホールデンが電車を待って一夜を明かしたのだろうかと思った。駅を出ると外は雨が降っていて隣の店で傘を買った。俺は本やへ行きたかったのだが、まさか今日街にでるとは思ってなかったので何も調べてなかった。ファッキン柔道耳がタイムズスクエアに行きたいとか言い出して雨の中何の頼りもなく歩き始めた。ニューヨークシティは湿気を帯び、雨の日の都市独特の空気に満ちていた。雨だというのに建物の中にも外にも人だらけで、サラダボールとはこのことかと思い知らされた。エンパイアステートビルはそのでかい図体を雲の中に隠し、頂上を見ることはできなかった。黄色いタクシーや白いパトカーや黒くて長いリムジンやハリアーがとても新鮮だった。通りを飾る傘達の間を縫うようにしてひたすら歩いた。街にはクラクションの音が絶えず鳴り響き、まるでそれを仕事にしている人がいるみたいだった。適当に歩いているとそれっぽいところについた。ビルが先ほどよりも高くなり、人が車道にまで漏れ、立ち止まっては写真を撮っていた。建物はどれも電光掲示板や広告だらけで、大きなビルの上から垂れ下がるメリーポピンズやGIジョーやライオンキングの広告が目を引いた。左手にはハードロックカフェが見え、正面のビルはコカコーラの電光掲示板とその上ではオジーオズボーンが携帯電話のCMにでたりしていた。適当にうろついて写真を撮ったあとハードロックカフェに行った。中ではスーツを着た体格のいいダンディ黒人ガードマンが何人かとロックTを着たスタッフがさくさく働いていた。出入り口には人が常に行き交い賑わっていた。天井からはテレビがぶら下がっていて、Mötley Crüeや99 Red BalloonsやFall Out BoyのPVが流れていた。好きな音楽を聴きながら洋服やアクセサリーをあさっていると自分がアメリカにいることを忘れた。初日ではあるが気に入ったTシャツとアクセサリーを買っておく事にした。レジに持って行くと店員の女性に「Like New york?」と話しかけられた。なんと答えてよいかわからずあわあわしていると、「Never mine」といって微笑んだ。
肝心の講義は朝9:00から15:00までだった。基本的な英文法から会話を中心としたグループワークもあり、いくつかの選択講義もあった。12:00から1時間の昼食時間があり、俺たち留学生は知っているもの同士で固まって、主にピザを食べた。そのピザがアメリカンサイズで、帰国した時には3キロ太っていた。
バスに乗ってカイとスーパーへ。小さなピザ屋でピザを買い夕食に。駐車所でバスを待った。暑い1日で、アスファルトに映った自分の影がそのまま焼き付いてしまいそうな暑さだった。
週に何日かは図書館に行ってPCで日記を書いた。ヤフーメールを開き下書きに保存しながらこの文書を書いている。図書館のPCのキーボードにはもちろん日本語表記がなかったが、日本語でローマ字入力する方法を現地の学生ボランティアが教えてくれた。
大学のキャンバス内の本屋にグレートギャツビーとキャッチャーインザライを買いに行った。英語がろくに読めない俺にとって、その本屋の陳列は完全なる無秩序であり、本を探すという事が不可能だった。たまたま通りかかった現地の学生ボランティアを捕まえ、本を探してもらった。「Thankyou so much!」というと彼女は「どういたしまして、何かあったらまた言ってね」と言って微笑んだ。俺がこの期間に出会ったアメリカ人女性の去り際の感じの良さには、学ぶべき清々しさがあった。本と一緒にリュックと文房具、パジャマ代わりのバスパンを買った。リュックの盗難防止ペンキタグを店員が取り忘れて、自室に戻り小一時間格闘したが外れる気配がなくただただペンキが溢れ出るので、翌日また本屋を訪れた。
週に2日はキャンバス内のジムに通った。同じ大学からの留学メンバーのミツさんは、ジムの使用方法に精通していた。高校時代にタイにキックボクシング修行に行ったことがあるということで、筋肉の鍛え方を教えてもらった。
キャンバス内には自由に使えるバスケットコートがあって、売店でゴム製のバスケットボールを買って、何度かバスケをした。サマータイムもあって、日照時間が恐ろしく長く感じた。夜9時を過ぎても空が薄明るいのだ。
二週目
執筆中