2015.2.22「幸福論」
幸せとは何か。幸せとは、「幸せとは何かを考え続けること」であると私は考える。帰納的かつ演繹的に、幸せについての探求を怠らないことである。幸せになるには、幸せというものをある程度定義付けることが有効であると考えられる。それは幸せを求める場合なおさらである。幸せが何かも解らないのに、幸せを求めることはできない。そして全ての主観的存在は意識的にも無意識的にも幸せを求めている。よって幸せについての定義が必要となる。だが幸せとは何かを一言で定義することは困難であり、危険でもある。また移り変わる感情や思想、人間性に、不変的に広く幸せを定義するには、概念の抽象化と柔軟性が求められる。画一的な定義では定義化の意味を成さない可能性があり、具体的な事柄としての幸せが個人によって異なることを前提とした場合、幸せの概念を更新し続ける必要がある、すなわち考え続けることが必要となる。よって幸せとは「幸せとは何かを考え続けること」であると定義する。
「幸せとは何かを考え続ける」とは具体的には、新しい試みに積極的であることである。詳しく述べれば、「全ての物事に、哲学的な倫理観と道徳心を持った上で、関心、好奇心、探求心を持つ」ということである。新たな試みに積極的であることは必ずしも善いことではない。悪い試みに積極的あることは、かえって幸せを遠ざけるだろう。よってそこには哲学的な(考えられた、良心的に導かれた)倫理観と道徳心が必要となる。
演繹的に幸せとは何かを考える時、事情の本質的理解が必要となる。そして演繹的である以上、あらゆる事情を試す必要がある。そのためにはより良く知りたいという関心、好奇心、探求心が必要となる。
関心、好奇心、探求心(以下まとめて好奇心と表記)を持ち続けるには、想像力を養うことが1つの方法としてあげられる。それはどんなものだろうに(自分にとって、誰かにとって)、と想像する。それはどうなるだろう(自分にとって、誰かにとって)と想像する。多面的に物事を理解することが、さらなる好奇心と想像に繋がる。そして想像力は、倫理観と道徳心を持つ上で必要不可欠な能力である。なにより、人は想像の先に幸せを見いだす生き物である。
また、想像するには正しい論理が必要となる。論理的思考能力が、想像する上である種羅針盤的に作用するからである。論理的飛躍や論理の破綻は、謝った判断を導くことになる可能性がある。
以上