2005年4月「卒業」
春休みが終わり、僕たちは三年生になった。僕と明菜が拵えた復縁作戦はどれも尽くユタカに打ち破られた。明菜はもうユタカのことは諦めたようだったが、明菜からは定期的にメールが来るようになった。
五月の始め、中学生活最後の大イベントである修学旅行があった。普段はバスケ部の連中ばかりと遊んでいる僕も、この日ばかりはクラスの友だちと行動を共にしなければならなかった。宿も見学先もほとんどクラスごと別々の時間と場所に割り振られていたため、はっきり言って僕は退屈だった。唯一の救いは、僕の五組と奈保子のいる七組は宿を含め一部の見学先が一緒に割り振られていたという事だ。僕はまだ無意識の内に奈保子の姿を追っていた。どこへ行っても京都の寺院なんて二の次にまず奈保子の影を探した。奈保子のことが忘れられずにいた。
宿では七組の男子が僕らの部屋に遊びに来たり、パジャマに着替えたクラスの女子が遊びに来たりした。誰からともなく恋バナが始まり、由子さんに「まだ奈保子のこと好き?」と聞かれたが、適当に受け流した。カオルは一年のころから千里さんのことが好きで、まだ彼女のことが忘れられないと言っていた。
深夜まで騒ぐ僕らの部屋に、突然担任が押しかけてきた。僕達は急いで電気を消し、男女入り交じって布団の中に隠れた。僕の布団の中にも誰か女の子が潜り込んできた。僕は少しドキドキしたが、それとほとんど同時に、この子が奈保子だったらどんなに幸せだろうと思った。担任が部屋から出て行き、女子が部屋へ帰ると、友人達はそれぞれの布団に誰が入ってきたかを興奮して発表しあった。
翌日の午後、五組と七組は日本庭園を見ながらお茶を飲むというスケジュールのため、宿の近くの寺へ行った。この日の京都には朝からしとしとと雨が降っていて、ライトアップされた庭園の草木は小さな雨粒を反射させ、幻想的に輝いていた。静まり返った夕暮れ時に音も無く降り注ぐ雨が、庭園の趣を一層引き立たせていた。
僕達は座敷で四列になり、向かい合わせに正座してお茶を飲んだ。偶然僕の前には奈保子が座ることになり、思いがけない事態に僕は恥ずかしさで顔が赤くなるのを感じた。更に運悪く奈保子の後ろにいるローリーと目が合ってしまった。
慣れない静けさと緊張感に耐えかねたローリーは、僕を見るなり訳の分からない不器用な笑みを浮かべ、しょうもない顔芸をかましてきた。おかげで僕は奈保子の目の前でお茶を吹き出すという大失態を晒してしまった。
☆
修学旅行が終わり、部活も引退してしまうと、僕らには高校受験が待っていた。中学二年の夏を境に成績が鉛の飛行船のように急降下した僕は、推薦入学で高校へ進学しようと考えていた。当然僕には奈保子の進学先が気になるところだが、彼女も僕と同じ高校を狙っているという話を聞き少し安心した。
この時期からローリーに彼女ができたという噂をちらほら耳にするようになった。噂の相手はローリーと同じ七組の志帆という女の子だ。明るく活発で誰にでも分け隔てなく話しかける志帆は、僕らの学年のアイドル的存在で、同時に男遊びが激しいことでも有名だった。そういえば以前、放課後に学校近くの駐車場でローリーと志帆が二人で話しているのを見たが、僕は別に気にもしなかった。噂の真相は本人に聞くまでもないと僕は思った。あんなローリーづらのサディストに彼女ができるわけがないのだ。
明菜からのメールは日増しに踏み込んだものになっていった。彼女の好意を察知した僕は、あえて素っ気ない受け答えをすることでその芽を摘もうと思った。
しかし七月下旬、夏の始めの花火大会の帰り際、僕は彼女から人気のない川原沿いの道に呼び出され告白された。僕は「他に好きな人がいる」と言ってそれを拒んだ。その一ヶ月後、明菜は七組のケンイチ君と付き合い出した。
毎度のことだが、今回ばかりは僕は複雑な気分になった。彼女たちが僕に好意を示す度、僕はそれなりに頭を悩ませ、申し訳ないという気持ちでその申し出を断ってきた。教室や廊下ですれ違う度に僕は気まずい空気を味わった。それなのに、半年も立たないうちに彼女たちは新しい恋人を見つけ、これみよがしに幸せそうな笑顔をばらまいた。僕に告白した翌日に新しい彼氏を見つけるという強者もいた(杏理さんだ)。どうせそんな付き合いも長くは持たないというのに。
お前らからしてみれば俺の代わりはいくらでもいるはずなのに、どうしてよく考えもしないで俺に胸の内を告白するんだ? その愚かな恋の芽を摘むために俺がどれだけ神経をすり減らしてお前らに接していたのか分かるか? あの不毛な努力とそれに費やした無駄な時間を返せ! と叫ぼうと思って、やっぱりやめた。
☆
「部活を引退するまで待ってて」という奈保子の言葉を、僕はまだ心の片隅で信じていた。夏休みが明けて一カ月ほど経ったある日、由子さんからメールが着た。
「突然だけど、まだ奈保子のこと好き?」
「ほんとに突然だね。たとえ好きでも人には言わないと思うよ」
「そっか、じゃあもう告白しないの?」
「忘れられなかったら卒業式の日にでも告白するよ。たぶん」
意味深なメールだった。奈保子はまだ僕の事が好きなのかもしれない、そう思わずにはいられなかった。
その翌日に一通のメールが届いた。それが奈保子からのものだということを確認すると、僕の鼓動は一気に高ぶった。僕たちは進学についての話や、将来の夢などの話を数日に渡ってやり取りした。
奈保子との関係が途切れて一年が経とうとしていた。僕の不用意な発言がきっかけで、それが回りまわっておかしな噂となり、彼女を傷つけてしまったことを思い出した。彼女にもらったキーホルダーを返してしまってから、僕の中の何かが切れてしまっていた。メールを交わした数日間、僕は彼女の言葉に癒されているのを感じた。彼女のいない一年間がどれだけ退屈で空っぽだったか、彼女が僕をどれだけ励ましてくれたかを理解した。僕はその時はっきりと、まだ心に残る恋の火種を認識した。
彼女は志望校をひとつ上のレベルの高校に変えたそうだった。とてもショックだったが、どこかで覚悟はできていた。卒業してしまえばもう、奈保子と僕を繋ぐものはなくなってしまう。
奈保子からは頻繁にメールが送られてくるようになった。家にいる間、僕は勉強そっちのけで携帯電話を握りしめ、奈保子からのメールを今か今かと待ちわびる日々を送った。奈保子からのメールと思って開いたメールがバスケ部連中のものだった時には携帯をベッドに投げつけたりしたものだ。
奈保子へのメールの返信には細心の注意を払った。遅すぎず、早すぎずだ。僕は受信した奈保子のメールをどんなに短文でも最低五回は読み返し、返信のメールは試行錯誤を重ね作文し時には一度書き上げたものを全部削除したりして、最低十回は読み返しながら文書を考えた。思いつきや直感で返事を返したことなんて一度もなかった。僕はこのチャンスを、何があっても逃してなるものかと必死だった。
そんな風に時は過ぎて気がつけばもう十一月、卒業アルバムの写真撮影を間近に控えたある日、由子さんからこんなメールが着た。
「アユム君、彼女欲しいとか思わないの?」
「彼女が欲しいと思ったことはないね。燃えるような恋がしたいと思ったことはあるけどね」と僕はふざけてそう言ってみた。
「じゃあ今は好きな人はいないの?」
「いるよ。ただその子のことが好きだっていうのと、その子を彼女にしたいっていうのは、僕にとっては全く別の話なんだよ」
「ふーん。じゃあ、元カノとよりを戻すのはアリ?」
「大アリ」
翌日、由子さんが僕に「今日奈保子からメールがあるよ」と、思わせぶりな笑みを浮かべながらそう言った。廊下で奈保子と眼が合うと、彼女は頬を赤らめ、下を向いて走って逃げて行った。
僕はハッとした。今までも奈保子から普通にメールが来ることはあったというのに、わざわざそれを俺に伝えるということは…今日のメールは特別ということだ! 女心に察しの悪い僕でもそれくらいの事は分かった。
その夜、いつにも増してドキドキしながら奈保子からのメールを待っていた。携帯が奈保子からの受信を知らせるブルーのライトを点滅させると、僕は大きく深呼吸してからそのメールを確認した。
「こんばんは。アユム君ちのウサギは元気?」というメールだった。
小学校卒業の時、僕たちはクラスで飼っていたウサギをみんなで引き取り、それぞれの家で飼育することになったのだ。僕が持ち帰ったのは白と黒のブチで、彼女は真っ白の綺麗なウサギを引き取った。
家のウサギは元気だよ。奈保子の家のウサギはどう?とメールを返し、その後何通かウサギについての近況を報告しあった。しかし「俺最近すごい爪が伸びちゃって困ってるんだけど、どうすればいいのかな?」というメールを僕が送ると、返信はぱったり止んだ。風呂を上がってメールを確認してみたが、返信はなかった。不思議に思った僕は、自分のメールを読み返してゾッとした。
これじゃまるで、俺の爪が伸びてるみたいじゃないか!
僕が言いたかったのは「俺の飼ってるウサギは最近爪がひどく伸びてしまったんだが、どうやって切ればいいのだろうか?」ということだった。自分の爪が伸びて困った挙句彼女に相談した訳ではない。
世紀の大チョンボに気付いた僕は即座に「ウサギの爪がね!」という弁解メールを送ったが、その後彼女からメールが返って来ることはなかった。
僕は興奮のあまり、思いつきで返信をしないという自ら課した鉄の掟を犯してしまった。その結果、僕は奈保子に与えられた残り少ないチャンスの一つを棒に振ってしまったのである。
この一件ですっかり意気消沈していた僕であったが、高校のAO入試には難なく合格した。成績こそ振るわなかったものの、僕はバスケ部では部長、生徒会では役員を務めていた。当時僕の志望校で三年生だった兄は、生徒会、部活、検定試験の面で多くの業績を残し教師から一目置かれていた。当然面接官の教師達も僕が彼の弟であるということを知っていたため、落ちる要因なんて一つもなかった。面接を終えたその瞬間に僕は合格を確信していた。
慌ただしく勉強を始めるクラスの女子共を尻目に、僕は優雅な気分を味わっていた。奈保子やバスケ部の奴らと一緒に過ごせる時間も、もう僅かとなっていた。
年が明けてからしばらくして、また奈保子からメールが来るようになった。
「高校合格おめでとう。いつも私ばっかりメールしてるから、たまにはアユム君の方からメールしてよ」とのことだった。
高校受験の前日、僕は奈保子に応援メールを送った。受験を終えてから不安を抱える彼女に励ましのメールを送ったりもした。
「応援ありがとね。入試、そんなに出来なかったわけじゃないけど、もし合格できなかったらどうしよ」
「出来なくなかったなら大丈夫だよ。落ちても私立がまだ残ってるし」
「でもやっぱり心配だよ。私立はお金がかかるし…。浪人したくないよ」
「もう少し明るく考えよう。落ちたら思い切って留学するとか!」
「留学もいいけど、とりあえず受かりたい!」
「奈保子には何か就きたい職業はあるの?」
「なれるか分からないけど、医療系の資格を取って病院で働きたいと思ってるよ。アユム君は?」
「医療系かあ、奈保子ならきっと大丈夫だよ。俺は会計士か税理士かな。なんかつまらないよね」
「私は立派な職業だと思うけどな。なんでそう思うの?」
「親と同じ職業って、すごく安直じゃない? 自分で決めたはずなのに、本当に自分で決めた進路のように思えなくて」
「そんなことないよ。もっと自分に自信持って!」
☆
奈保子は志望校に無事合格し、僕達の共有できる学生生活はついに卒業式を残すのみとなってしまった。
いつか由子さんに言った一言を僕はまだ覚えていた。好きだったら卒業式の日に告白する。あの時はまだ卒業式まで半年近くあった。俺はどうして後先考えずあんな風に公言してしまったのだろう。
卒業式が終わり、教室で泣きじゃくる女子達や担任の最後の挨拶をそっちのけに、僕はどのタイミングでどこに奈保子を呼び出そうか、そのことばかり考えていた。結局、クラス単位でそのまま謝恩会の会場へ移動してしまい、奈保子と二人きりになる時間なんて微塵もなかった。時間がなかったのだからしょうがないと開き直った僕は、謝恩会でクラスメートと騒ぎに騒いだ。記念写真を撮ろうと携帯を取り出すと、奈保子からメールが来ていた。なんだか少し怒っているようだった。
「由子に『あんなの付き合った内に入んない』とか言ったみたいだけど、私も付き合ってると思ってなかったから。バレー部が何か言ったみたいだけど、私は関係ないから勘違いしないで。あと明菜さんに告白された時私の名前出したみたいだけど、そうゆうのやめて」
彼女の理解不能な手紙やメールにはいつまで経っても慣れるということがなかった。また一体どこで彼女はそんな話を入手したんだろう? そしてなんでよりによってこんなタイミングでメールをよこすんだろう? 当時の僕があと十歳大人だったら、ならそんな彼女の心情を察して気の利いたメールや誘いを投げかけてあげられただろう。だがまだつるつるの童貞だったあのころの僕には、奈保子の気持ちなんてものは全く理解できていなかった。
「バレー部の子に何か言われた覚えもないし、明菜の時も奈保子の名前を出した覚えはないよ」
「明菜さん本人から聞いたんです」
「俺は、他に好きな人がいるって言っただけだよ。明菜ちゃんがそれを勘違いしたんじゃない?」
メールは翌日まで続いたが、彼女の機嫌はなかなか直らなかった。結局おかしな形でメールは打ち切られ、僕と奈保子の関係はどこかはっきりしないまま高校まで持ち越されることとなった。
おわり