【考察】村上春樹がノーベル賞を取れない理由

学習

2014年10月に早稲田大学の小野記念講堂で開催された講演

「早稲田が生んだ?世界のムラカミ??-村上春樹とノーベル賞の近くて遠い距離ー」

について、当時のノートが出てきたのでここにまとめたいと思う。講演者は早稲田大学文学学術院准教授市川真人先生。


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早稲田大学と村上春樹

言わずもがな、村上春樹の最終学歴は

早稲田大学第一文学部‎映画演劇科

である。在学中は早稲田文学という雑誌の編集委員の経験もある。ある時期から日本の文壇シーンからは距離を置くようになった村上春樹。メディアへの露出が少なく、自身のバックボーンについてあまり語らない彼は、早稲田卒であることも積極的に語ったことはなかった。

しかし、2007年に発足した「早稲田大学坪内逍遙大賞」の第一回大賞受賞者は何を隠そう村上春樹であり、ちゃんと会場であるリーガロイヤルホテル東京(早稲田大学キャンパスの真横に位置するホテル)にも足を運んでいる。以下は当時の記事。

本人の強い希望で、マスコミ関係者の写真撮影や質疑応答は一切禁止の式典だったが、村上さんは「特にマスコミ嫌い、人嫌いではないが、人見知りをするだけです。ありがとうございました」とあいさつ。

http://bungei.cocolog-nifty.com/news/2007/11/post_17c4.html

村上春樹が世界的ベストセラー作家になってから、村上春樹に賞をあげたくて仕方のない人たちはたくさんいたが、村上春樹はそれを受け取らなかった。そんな中、坪内逍遥大賞を受けてくれたということはつまり、早稲田大学卒について積極的に公表はしていないものの、早稲田が嫌いというわけではなさそうである。

村上春樹の素顔

授賞式で村上春樹に会った市川先生は「気さくなおっちゃん。ギャグのつまらない関西人」といった感想を持ったそう。エロティックな作品を書く人が本当にエロイか?精神的に攻撃的な作品を書く人が本当に人に殴りかかることはあるか?同じように、村上春樹も実際に人前で「やれやれ」とは言うわけではない。一般論として「作品」と「作者」は別のものである。

世界文学とノーベル賞(村上春樹は世界文学か?)

世界文学とは?

「世界文学」についてのダムロッシュの定義は以下の通り。

世界文学とは「世界中へ移動していくときに新しい生命を授けられる」文学である。

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平たく言えば、世界中で読まれているということだ。

日本語だけで書かれて翻訳されていないすばらしい作品は無数にある。日本語でしか書けないものを書いているという点では最高の日本文学であると言えるが、そういった文章は英語の構文で読むには難しく、英語に翻訳することが適切でない。故に誰も翻訳しようと思わない、つまり世界文学にはなり得ない。

(二つの国の言語を優秀に扱うことができ、それを翻訳しようという情熱を持った人間が現れたとき、小説は翻訳される。しかし、本当に優秀な翻訳を残そうと思ったら、その国に住みその言葉の温度や辞書には載っていない言葉を手に入れて訳さなければならない)

文学作品が翻訳されるための本当の条件は「訳した本が売れなければならない」という経済条件や読者の反応ではなく、

翻訳によって元の作品が持っていた何かが抜け落ちてしまうことに、その作品が耐えられるかどうか?

である。村上春樹が世界中で訳されるのは、訳した時に抜け落ちるものが少ない、あるいは落ちたものがあってもそれに耐えられるからである。

ダムロッシュの世界文学の条件は以下の通り。

・世界文学とは、諸国民文学を楕円状に屈折させたものである。
 →翻訳することで元の言語とは別の中心点(価値)が生まれる
・世界文学とは、翻訳を通して豊かになる作品である。
 →翻訳することで新たな生命が生まれる
・世界文学とは、自分がいまいる場所と時間を越えた世界に、一定の距離をとりつつ対峙するとうい方法である。
 →現在(2014年の日本)を取り巻く価値観、世界の見え方、空気感を超えた世界に向き合うことができる作品

ノーベル文学賞とは?

ノーベル文学賞とは「世界文学に対して与えられる賞」である。日本人の受賞者は以下の通り

川端康成
1968年受賞
代表作「雪国」「伊豆の踊子」

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大江健三郎
1994年受賞
代表作「万延元年のフットボール」

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講談社
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ノーベル賞のすごさとは?

ダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルが「世界をよくしようと頑張ってる人に自分のお金を使ってほしい」と言って作った賞。文学賞・化学賞・物理学賞・平和賞・生理学/医学賞・経済学賞がある。では何がすごいのか?

ノーベル文学賞の価値①

考えれば当然のことではあるが、世界規模で何かをジャッジすることは大変に難しい。言語も文化も価値観も違う国の文学を横一線に並べて、誰が一番良かったかを決めなければならないのである。世界中の文学を相手に賞を与えようとすると手間もお金も莫大にかかる。それを多くの人から「妥当である」と指示される選任をやってしまえるノーベル文学賞はやはりすごい。

ノーベル文学賞の価値②

ノーベル文学賞は「ノーベル賞」の一ジャンルであり、他の受賞者と比較することができる。いわば空間とジャンルを横断する賞なのである。ノーベル文学賞を取れば、文学に詳しくない人にも「あのアインシュタインと同じ賞」「青色LEDやiPS細胞と同じくらいすごい」と、どれくらいすごいことなのかを感覚的に理解してもらえる。

ノーベルは生前「文学は人類の理想に寄与するものだ」と考え、ノーベル賞に「文学賞」を作ったという。つまり「文学で世界をよくしようとしている人は偉い」から、表彰しようということだ。

村上春樹は人類の理想に寄与するのか?

「やれやれ」とつぶやくことやパスタをゆでることが「人類の理想」に寄与するのか?人妻と不倫をしながら昔好きだった人のことを考えることが「文学で世界をよくする」ことに該当するのか?耳の形がいい秘書を見つけて旅行に連れ出し突然逃げられることが「世界をより良く」するのか?

人類の理想に寄与する文学作品が全くエロくないし暴力的でない、なんてことは全くなくて、そこには当然エロスも暴力性も含まれる。いずれにせよ、ノーベル文学賞を受賞しようと思ったら、その文学作品は「ある種の理想」に寄与するものでなければならない。

村上春樹の特殊性

村上春樹の文学は何が特殊なのか?「日本の小説」という時点で、世界規模で見れば珍しさは充分ある。もちろん村上春樹の世界的な評価にはそういった事情も含まれてはいるだろう。しかし村上文学は、そもそもその作品の内容に特殊性がある。

ではどう特殊なのか?なにが面白いのか?文壇の人間、文学者からは「村上春樹ってすごいって言われてるけど、あまり上手くないんじゃないか?」という声も確かに聞こえてくる。適当に時々エロ場面が入ってくるから「飽きない」というだけで、大江健三郎のような息苦しいほどの筆遣いはないし、古井由吉もつあの”微妙な”エロスもない、川上未映子の言葉の可能性に対する気づきを与えてくれるような運動性もない。しかし、それとはまったく違った「何か」が村上文学の中には確かに存在する。

村上春樹と「アメリカ」

有名な話ではあるが、デビュー作「風の歌を聴け」は、当時の文学者たちの間では超が付くほどの不評で、アンチ村上が8割を占めたという。特に、キャリアのあるそれなりに社会的地位を持った文学者から「あいつはアメリカかぶれだ」と言って嫌われる。

小説の冒頭は「デレク・ハートフィールド」というアメリカの小説家の話から始まる。「完璧な文章というものは存在しない」と言い残し死んでいった「デレク・ハートフィールド」という作家がいかに優れていたかを説明するところから物語は始まる。

これに対し当時の文壇は「日本人のくせにアメリカ最高とか言うんじゃねえ!」というスタンスだったという。

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3作目「羊をめぐる冒険」は小説として優れた作品であるし賞も取ったが、4作目「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」までは、村上春樹はそれほど評価される作家ではなかった。むしろ同時代に活躍した村上龍の方がはるかに評価された。

デビュー作「限りなく透明に近いブルー」で米軍基地の町という世界を表現し、一見平和に見える世の中にも確実に「米軍」というものは今なお残っていて、そのことによって苦しみ戦っている若者たちがいるんだと主張した。アンチアメリカを大々的に掲げて鮮烈なデビューを果たした村上龍。彼は安保闘争の文脈のど真ん中に現れ、当時の若者、知識人、文学者から支持を得た。

それに対して、「ピーターキャットとかいうジャズ喫茶をやって、アメリカかぶれした小説を書いて、ちゃらちゃらとアスパラなんて茹でてる村上春樹はとっととアメリカに行っちまえよ!」と思われていた(らしい)。

ちなみにデレク・ハートフィールドという作家は村上春樹が考えた実在しない空想の作家である。インターネットなんてものが存在しなかった79年当時、熱心なファンがデレク・ハートフィールドの小説を求めて本屋さんを困らせたという話は有名である。そのほかにもアメリカめいた単語「ミッキーマウス」「ジョン・F・ケネディ」などを作品内で頻繁に使用している。

村上春樹の評価

2作目「ピンボール」も(パチンコが全盛期の日本において)ピンボールというアメリカめいた単語をタイトルに用いるなど、村上春樹=「ただのちゃらちゃらしたアメリカかぶれ」というイメージが当時の文学者の間で定着していた。80年代中盤も村上作品の評価はそう変わらなかった。その時点で村上春樹の読者は国内に20万人~25万人いたと言われている。(村上龍がデビュー作「限りなく透明に近いブルー」を160万部売り上げていることから、それでも村上龍に比べれば評価はかなり低かった)

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中の上の下くらいのヒット作家だった村上春樹は1987年「ノルウェイの森」で一大ブームを巻き起こした。上下巻合わせて400万部という大記録を打ち立て、ベストセラー作家となった。しかしこの大ヒットも、ほとんど作品の力ではないと言われている。「装丁の赤と緑がクリスマスっぽかった。帯を金色にしたら余計売れた」というのが当時の講談社の担当者のコメントである。87年の9月の末ごろに書店に並んだノルウェイの森は、10月11月と20万部程度(読者数と等しい)で一度売れ行きが止まる。この時点で売れ残りが発生していたため、講談社の担当者が取次の人といろいろ相談をして「せっかく赤と緑だから金色の帯をつけたらクリスマスっぽくね?」と言って、12月の書店に並べた。人々は、「赤、緑、金」のおしゃれな装丁と「あなたの大切な人に贈りたい一冊」と書かれたポップの文言に惹かれ本を購入したという。「贈りたい一冊」であって、「読みたい一冊」ではない。ノルウェイの森は売上こそ驚異的な数字を残したが、その中身を実際に上下とも読んだという人はそれほど多くはないだろう。

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そんな背景もあり、村上春樹はどれだけ売れても評価が上がらない作家のひとりだった。作家 大塚英志曰く「春樹なんてものは所詮構造だけの作家であり、文学に必要な細かいディティールがない」だからよく売れる。要するに、

「形だけだから馬鹿でもわかる」

ということである。


小説家であり第26代東京大学総長である蓮實 重彥は「村上春樹は結婚詐欺みたいなものだ」と言う。結婚するぞするぞと見せかけて、結婚せずに金だけとるのが結婚詐欺。村上春樹も、小説の中に何か大切なものがあるぞあるぞと見せかけて、結局何もなく金だけとる。

このように、80年代の村上春樹は批評に晒されてきた。しかし80年代後半、日本のバブル期に村上春樹と吉本ばななが海外で受け入れられることになる。吉本ばなながイタリアで受け入れられ、村上春樹の小説はアメリカをはじめ、中国、台湾、韓国といったアジア諸国で流通が盛んになった。当時のインタビューで韓国の読者は「まるで自分のことを書いているみたいだ」と答えた。村上春樹の文学は特にアジアの都市部で「おしゃれ」で「共感を呼ぶ」作品であるとして受け入れられたという。

村上文学と「感情移入」

「感情移入」「自己投影」「共感」は尾崎紅葉、夏目漱石をはじめとした近代日本文学の特徴である。
それは文学における一つの楽しみ方でもある。映画やアニメーションといった映像では「こいつは私じゃない」とわかってしまい、自己投影しにくい。小説では登場人物のディティールがグラフィックで描かれないため、まるで自分のことのように読むことができる。

人は、自分よりちょっとおもしろい、ちょっとかっこいい、ちょっと切ない、と感じた時「この登場人物はまるで自分のようだ」と思う。つまり現実的に手の届く範囲での理想(アーバンでおしゃれなイメージ)、ちょっと魅力的なもの、ちょっと進んでいるもの。そういった世界は読者を心地よくさせ、共感を生むのだ。1970年代にスパゲッティのことをパスタと言ったり、困ったときに「やれやれ」と言ってみる。村上文学の持つその微妙な差こそが「まるで自分のことみたいだ」という錯覚を生み出し、読者の快楽を掻き立てる。これは実は非常に資本主義的な話で、我々がどのようにして欲望を生み出し、掻き立てるのかという問題ともつながっているが、これは後述。

村上春樹が世界で読まれる最大の要因

「都市部イメージを持っていること」が村上文学の特徴の一つである。それはつまり「自分達よりちょっと先を行ってるかっこよさ」である。この講義の肝にもなるが、村上春樹の「カッコよさ」というのは、

翻訳で抜け落ちない。

英語にした方がむしろかっこよくなる。海外で評価され「Haruki Murakami」として紹介された方がなんならかっこよく見える(カズオ イシグロみたいに)。1Q84が出版された際にアメリカで行われたインタビューでは「Haruki Murakamiってアメリカ人じゃないの?」という意見も聞かれたという。つまり、

「構造しかない」「日本的な特殊性がない」という一見ネガティブな村上春樹の特徴が翻訳しやすく、流通しやすい、世界各国で読まれる最大の要因

となったのである。

加えて翻訳に際して編集者翻訳者たちは、文脈的に必要ないと判断した文章、あるいは過剰であると判断された文章というのはどんどんそぎ落とす。そうしてより流通しやすくなった「Haruki Murakami」の文学は、どんどんバリアフリーになり、どんどん読みやすくなっていく。

ダムロッシュの定義では、「世界文学」とは、

諸国民文学を楕円状に屈折させたものである(翻訳することで別の中心点が生まれる)

とあるが、むしろ村上春樹の文学というのは「中心」を持たない。

中心をあえて持たないことによって、その作品がどこでも受け取られやすくする

のである。一つの中心を持つことと中心を持たないことは、実は似た結果を生むのである。価値基準が一つになっている時代において、村上春樹的なあの「中心のなさ」「特殊性のなさ」「読者より少し進んでいる」という文学は、読者にとって非常に魅力的に見えるのである。

村上春樹が”まだ”ノーベル文学賞を取れない理由

村上春樹と資本主義

20世紀後半以降、私たちの世界を構成しているのは「資本主義」に他ならない。資本主義の世界の中心は一つ「お金」である。明治以降、近代的貨幣経済が流通した時代に日本人が戸惑った「愛とお金」の問題(尾崎紅葉「金色夜叉」)からもわかるように、現代では「お金」というものが非常に大きな価値観を持つようになった。マルクスが言ったように、「お金」は唯一の等価係数である。お金で世界が測れるようになり、お金でほとんどのものが買えるようになった。それがいよいよ浸透するようになったのが1980年代という時代である。村上春樹が活躍するようになった時代であり、後期資本主義、情報資本主義、金融資本主義などという言葉が生まれた時代でもある。お金を動かすことでお金を儲けることができ、実体を伴わず権利や記号を売買するだけで、社会経済が成り立つようになった時代。

世界の言語は「お金」に統一されようとしている。

英語が世界を席巻しているのは、英語を使う人間が多いからではない(人口的には中国語の方が多い)。英語圏の人間が力を持ち得るのは、現時点でお金と最も愛称が良い言語が「英語」だからである。どこの言語が勝とうと、その中心にあるのはもはや「お金」なのである。

村上春樹は言わば

「世界の中心がお金になりつつあることに、最も早く気が付いた日本人作家」

なのである。

資本主義への反対勢力は、1960年代に世界中で盛り上がった。学生運動家たちは体制に対し正面から戦いを挑んだ。そして歴史が証明しているように、彼らはそのすべての戦いに敗れた。彼らは何故負けたのか?その戦いの根底にあるものも「資本」だったからである。そのシステムの中で戦っても、システムそのものを動かすOS(オペレーティングシステム)に勝つことはできない。

世界中の資本を動かし、世界の中心となっている「アメリカ」と「ドル」。「ドル」が我々の生活のベースに、見えないけれども存在している。同じように

我々の生活のベースに、見えないけれども存在しているのが「アメリカ」資本主義」なのだ

と、村上春樹はデビュー作から強く訴え続けてきた。

「無意識に昔の歌を口ずさんでいる」と言ったとき、日本の文学であれば「古い童謡」「故郷の歌」「母を思う歌」「幼少期の原風景を表現した歌」が登場するのが相場である。「風の歌を聞け」の中での昔の歌は「ミッキーマウスマーチ」である。無意識に口ずさむ歌がもはや完全にアメリカナイズされているのである。1950年代から60年代、日本でもテレビ放送が行われるようになる。当時のキラーコンテンツは「奥さまは魔女」をはじめとするアメリカの大衆ドラマ、野球やプロレスといったアメリカンカルチャーだった。GHQが日本の統治政策に使用することを考えたと言われる「ベースボール」も村上作品には多く登場する(本人も大の野球好きである)。野球というのがいかに不自然なものでありながら日本の文化に自然に馴染んでいるのか、村上春樹は考えたことだろう。

アンチ村上は春樹を「アメリカかぶれ」と言うが、村上春樹から言わせれば、「あなた方の周りにどれだけアメリカがあるとお考えですか?もうアメリカなしでは我々は生活できないんだよ」と、過剰なまでのアメリカ的描写でそのことを強く訴えているのだ。

村上龍の「アメリカの基地があって、あいつらがいなければ俺たちはもっと平和に暮らせた」
という露骨な訴えは当時の運動家たち、知識人たちに大歓迎された。一方村上春樹は、自分たちの中に既にウイルスのように入り込んでいる「アメリカ」をきちんと見つめたうえで、それと戦うにはどうすればいいか?を考えたのだ。正面から挑んでも勝ち目はないと知っていたからだ。そして彼はデビュー作「風の歌を聴け」で「アメリカ」を名指した。名指すことしかしないから、単なるアメリカかぶれと叩かれた。

しかし村上春樹がアメリカ=資本主義に対して悪意を持っているということはの冒頭の「デレク・ハートフィールド」が象徴している。デレク・ハートフィールドなんていう作家は存在しない、しかし存在しないものに読者は踊らされているのだ。つまり、

我々は「アメリカ」=「資本主義」という見えない虚像に踊らされている。

というメッセージなのである。

村上春樹がノーベル文学賞を取れない理由

経営していたジャズ喫茶「ピーターキャット」は「ミッキーマウス」のアンチテーゼなのである。90年代以降、村上春樹は「ねじ巻き鳥クロニクル」等の作品で資本主義に対する違和感を表現していくことになる。

例えば「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」では、主人公は友人との間にトラブルを抱えており、その正体不明の問題に人生を支配される。「人は自分が自覚していない様々なものに縛られて生きており、そこから逃れることは簡単なことではない」ということを物語として伝えていると一般的には理解される。表面的には確かにそうだろう。しかし、根源的に今日の世界において、もっとも精神分析の対象となるべきは、根底に流れている「お金」と「資本」ではないだろうか。元本を超えて我々を躍らせ続けるお金に対して、資本に対して、自覚的であらざるを得ないということである。

村上春樹のそうした試みは、究極的には資本主義に対する戦いなのである。つまり村上春樹が”まだ”ノーベル文学賞を取れない理由は、水面下であれ、

資本主義というシステムの中で、資本主義と戦い続けているからである。

知っての通りノーベル賞は「本人が生存中」であることが受賞の条件である。村上春樹が生きている間に、資本主義社会が破綻することは果たしてあるだろうか?(資本主義社会が破綻した後の世界にもノーベル賞は存続するのだろうか?)

資本主義は、頑張ってお金を稼いで個人が豊かさを追求すればそれでよかった。アメリカは資本主義でで成功を収めた最たる例である。しかしそれは、各国の保有する資源に差があり、技術力に差があり、各々の頑張り度合いや稼ぎ方に差があったからだ。「すべての人が等しく豊かに」という社会的理想が技術的に現実可能となっていくこれからの世の中で、全ての国と人々が同じように豊かになったら、世界の資源はたちまち枯渇してしまう。そうしていずれ資本主義経済は破綻を迎える。

その時初めて世界は、村上春樹が何をしようとしていたか理解するだろう。資本主義と戦うには、正面から戦いを挑むのではなく、中から少しずつ破壊していくしかない。そして「20世紀から一貫してそれをやろうとしていた人物こそが村上春樹なのだ!」と事後的に評価されるだろう。「やっぱり資本主義は失敗だった…」と皆が肩を落とすときに、村上春樹の文学は再評価され、ノーベル文学賞を受賞するかもしれない。

わかりやすく資本主義に対抗したい人間は(当時の文壇、知識人)は村上龍を好み(ちゃらちゃらした村上文学を嫌い)、我々のように資本主義の中で彼の作品に憧れを抱く人間は、それを支持する。村上龍のように直接的に物事を発信する人間は確かに評価される。しかしエルサレムで世界に向けて発言する機会を与えられたのは村上春樹だった。


以上が講義ノートである。

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この記事を書いた人

平成生まれのアラウンド・サーティーです。30歳を迎えるにあたって何かを変えなければという焦りからブログをはじめました。このブログを通じてこれまでの経験や学びを整理し、自己理解を深めたいと思っています。お気軽にコメントいただけますと励みになります。どうぞよろしくお願いいたします。

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