2000年4月「女の子」
西暦2000年、僕はまだ小学生だった。当然ながら僕もかつては小学生だった。
小学生のころ、僕にとって女の子という存在はほとんど敵でしかなかった。というのは友だちの前での建前で、本音を言えばそんな敵でしかない彼女たちに「どうすればモテるか」ということばかりを必死に考えていた。僕は女の子という株式市場で自社株式の価格変動を常にチェックしていたし、その変動にはまるで本物の経営者のように頭を悩ませていた。
僕は女の子とのおしゃべりが好きだった。特に年の離れた兄姉がいる女の子と話すのは楽しかった。当時の僕には彼女たちがとても大人びて見えた。面白そうな深夜番組の話や、流行りのドラマや音楽の話は、いつも僕を遠い憧れの世界へといざなってくれた。
小学校四年生のときに初めてのクラス替えがあった。当時まだ九歳だった僕は、想像を絶する頭の悪さと大きな好奇心を兼ね備えた、とにかく目立ちたがりの男の子だった。新しいクラスになってから二日目の朝、早速僕は新しいクラスの男子を集めて廊下で鬼ごっこを始めた。たぶん自分の足の速さをクラスメートに見せつけたかったんだと思う。
僕はろくに前も見ずいきなり全力疾走し、登校してきたばかりのある女の子にものすごい勢いでぶつかった。僕たちは二人そろって廊下に倒れ、彼女のランドセルからは教科書や筆箱が飛び出した。ぶつかった女の子の心配よりも、早く逃げなければ鬼に捕まってしまうという心配の方が勝った僕は、誤りもせずにその場を立ち去ろうとした。
そんな倫理観のかけらも毛ほどの想像力も持ち合わせていなかった僕をいらみつけ、彼女は「あやまりなさいよ!」と叫んだ。思い出すだけでぞっとするこの絶望的な出会いを果たした彼女が、後に僕の初恋の人となった。なんだか馬鹿みたいな話だが、事実に即すとそういうことになる。
彼女の名前は奈保子といった。誰もが認める美人というほどではないが、それなりにかわいらしい女の子だった。彼女は小学校二年生のときに父親の仕事の都合で博多から転校してきた。三つ上の学年に姉がいて、僕の兄貴と同じクラスだった。明るく、運動ができ、主張の強い子だったため、クラス替えの翌日には女子のリーダーとして誰もが認める存在となっていた。
彼女と同じクラスになって一年間、僕たち事あるごとに衝突し、疑いの余地なく互いにいがみ合っていた。僕はいつかあの生意気な女をぶん殴ってやりたいと思っていたし、彼女の心境も僕と大して変わらなかったと思う。些細なことでいつも言い合いのケンカをして、お互いに歩み寄る気持なんて微塵もなかった。
僕らの関係が少しずつ動き始めたのは五年生の時だった。当時僕の親しい友だちだったタカシが、何の予兆もなく突然彼女の事を好きだと言いだした。タカシはクラスメートのほとんど全員から嫌われていたが、誰が見てもクラスの中心人物で、いわゆる「ガキ大将」だった。やんちゃで喧嘩っ早い性格だったが、一度ケンカをしてからは僕に強いことを言わなかったし、女子にもめっぽう弱かった。
タカシに奈保子との間を取り持つようにと頼まれた僕は、任務を遂行するべく友だちのテツヤと二人で奈保子を呼び出した。放課後の家庭科室に優さんと今日子というクラスの女子代表二名を引き連れて現れた奈保子に「今度の日曜日に近所の公園に遊びに行こう」と言って誘った。
僕の故郷であるN市は車がなければどこにも遊びに行けないほどの田舎だった。娯楽施設といえばボーリング場かカラオケ、ゲームセンターくらいのものだったが、小学生の僕にとって子供だけでそんなに遠くお金のかかる所へ遊びに行くことは犯罪に等しかった。当時の僕たちとしては、徒歩で公園に遊びに行くというのはいたってスタンダードな休日の過ごし方だった。
約束の日、僕たち男子三人が先に歩き、その数メートル後ろを女子が付いてくるという絵に描いたような惨事となった。しかし目的の公園に到着すると徐々に会話が増え、男女間を隔てる壁は自然となくなっていった。僕らは気を利かせてタカシと奈保子を二人きりにさせてあげたのだが、得にこれといって進展のないまま一日が終わった。僕としてはとても面白い会だったし、できればまたみんなで集まって遊びたいと思った。
それから数カ月後の十二月、今度は女子からの誘いでクリスマス会を開くことになった。僕らはそれぞれプレゼントやお菓子を持ち寄ってテツヤの内に集まった。タカシにはもう他に好きな子ができたみたいだった。普段の僕と奈保子の関係は変わらず険悪だったが、こういうイベント時にはなぜか二人の会話はやけに弾んだ。
六年生の修学旅行で僕と奈保子は同じ班になった。バスの席も近く、どこを回るにも一緒に行動していていたため、修学旅行を終えたころには僕たちは自然と仲良くなっていた。
僕が彼女を恋愛対象として意識するようになったのはそのころからだった思う。以前のように衝突することもなく、自然と楽しい会話が増えていった。奈保子とおしゃべりをした後は、不思議な高揚感に包まれた。休み時間や体育の時間、知らず知らずのうちに僕は奈保子の姿を目で追うようになった。奈保子がほかの男子と楽しそうに話をしているのを見るとイライラした。
僕は生まれて初めて自分の気持ちが分からないという奇妙な感覚に陥った。奈保子だけがの女の子と違って見えた。彼女の何が自分を惹きつけるのかを小学生ながら一生懸命考えた。僕は奈保子のことが好きなのかもしれないと思った。「そもそも好きって一体どんな感情なんだろう? 僕は彼女の何が好きなんだろう?」僕は一日の終りに湯舟に浸かりながら、あるいは明かりの消えた天井の模様を意味もなくじっと見つめたまま、一人でよくそんなことを考えるようになった。
誰にも相談することなく、僕は最終的に一つの答えを導き出した。恋は盲目だとか、好きに理屈はないだとかいう映画やドラマの決まり文句の意味が少し分かった気がした。そして彼女にはありのままでいて欲しいと思った。あれほど嫌いだった人間を好きになってしまうという心境の変化には自分でも驚いた。「好き」の反対が「嫌い」ではなく「無関心」であるということを僕は幼心に悟った。
修学旅行からしばらく経った七月の休日、僕が家でスピッツのCDを聴いていると一本の電話があった。奈保子だった。
「もしもし、ごめんね突然。なんか変なこと言うけどさ…。やっぱりいいや、何でもない!」と言われて電話は切れた。
それからまたすぐに電話のベルが鳴った。今日子だった。
「今からある人に頼まれたことを聞くから正直に答えてね。アユム君には今好きな人がいますか?」
突然の質問に動揺した僕は、ぎこちなく平静を装い「べつに…」と答えた。
「じゃあ奈保子は?奈保子、アユム君のこと好きみたいだよ」と言って電話は切れた。
電話があった日から数日間、僕は今日子の言葉を素直に受け入れることができなかった。相手はあの奈保子だ。いくら以前に比べ仲が良くなったとはいえ、僕らが対立しているというのは周知の事実だった。女の子に告白されたことのない僕はこの複雑な感情をどう処理してよいののかわからず、奈保子が僕に告白したのには何か裏があるんじゃないかと考えた。実はまだ奈保子は僕の事を嫌っていて、その腹いせにからかってるんじゃないかと思った。
そんな恋愛下手な僕の心配をよそに噂はすぐに広がった。別のクラスの友達から好きな人を問いただされたり、二人はすでに両想いなんじゃないかと囁かれた。僕と奈保子の間にはもやもやした妙な距離感が生まれ、電話の前と比べて僕たちの会話は変によそよそしくなった。
夏休み明けのある日、今日子から電話があった。母親が取り次ぐその電話を、僕はいつもドキドキすると同時にその緊張を家族に悟られないように受けなければならなかった。僕は会話を聞かれないように慌てて二階へ上がり、呼吸を整えて受話器を取った。
「この前の返事を教えてください」と今日子。後ろには奈保子の気配があった。
「今?」僕は驚いてそう訊き返した。
「そう、今」
なんと返事をするべきか決めかねた僕は、「たぶん、僕も好きだと思うよ」と答えた。
「ふーん、分かった」
そこで電話は切れた。
彼女達はいつも突然電話をかけてきて、僕に無理な質問を投げかける。その質問に自分なりに精いっぱい答えようと慎重に言葉を選びながら話しだすと、全部言い終わらない内に電話は切れてしまう。当時の僕にとって女の子というのはそういうものだったし、ひょっとしたら今でもそうかもしれない。
僕はしばらく自分の部屋に籠り、奈保子のことを考えた。自分の発言に納得がいかなかった。「好きだと思う」という言い方が男らしくなかったなと思い、急に恥ずかしくなってきた。
先ほどの発言を撤回して本当の気持ちを伝えよう。僕は意を決して奈保子の家に電話をしたが、彼女はお風呂に入っていた。女の子とはそういうものだった。
その後僕らの関係は今日子の口を通してクラス中に知れ渡った。小学校卒業までの半年間、僕と奈保子は集団意識の中の「両想い」と書かれた箱の中に入れられ、手厚くもてなされた。
☆
卒業も近くなってきた十二月の初めごろ、担任が僕らに向かってこう言った。
「今中学校でのクラス編成を決めている。誰かこの人と一緒のクラスになりたいという要望があれば、同じクラスにしてあげるから遠慮なく言いなさい」
クラスメートは互いに顔を見合わせて、皆恥ずかしそうに肩をすくめた。たとえ誰かと同じクラスになりたいと思っても、それを担任に直接言いに行くなんて恥ずかしくてできるわけない。こっちが一緒になりたいと思っていても、相手側がそれを望んでいるなんて確証はないからだ。それに「相手もそれを望んでいるに違いない」なんて確信は、小学生の僕には畏れ多くおこがましいことに思えた。きっとみんなの感じていることも僕と大して変わらなかったと思う。担任の気遣いも虚しく、結局誰も名乗り出るものはいなかった。
ある日の放課後、担任がバッグだけを教室に残して職員会議に出かけたことがあった。ほとんどのクラスメートは既に帰宅していて、残っているのは僕とテツヤとカオル、今日子と優さんと奈保子といったいつものメンバーだった。
いたずら好きの今日子と優さんが担任のバッグを物色していると、今日子が一冊のファイルを見つけ大声を上げた。
「これ中学校のクラス編成だ!」
それを聞いた途端全員の目の色が変わった。「見せて見せて!」全員が一斉に身を乗り出すせいで、書いてあることがよく見えない。
「待って待って、先生に見つかると大変だから、カオルと奈保子は階段で見張ってて。後で全部教えてあげるから」
今日子は一通りファイルの中身を確認すると、笑みを浮かべて僕の顔を見た。続けて僕らが内容を確認した。僕は真っ先に自分の名前を探し求め、それから奈保子の名前を探した。二つの名前は一瞬で見つかった。五組、と書かれた枠の中に、僕と奈保子の名前が隣り合って並んでいたからだ。その下にはカオルの名前も書かれていた。
「先生が来た!」
血相を変えて飛んできたカオルの一言でファイルは閉じられ、カバンの中へ元あった通りに戻された。僕たちは急いで担任の机から離れ、それぞれ意味のない会話の断片を大げさに口にした。
バッグを忘れたことに気付いた担任が教室に戻ってきて「まだいたのか、早く帰れよー」と言ってバッグを持って教室を出て行った。
ふう、と全員が肩を撫で下ろした。
「で、どうだった?」カオルが目を見開いて僕に聞いた。
「カオルは俺と同じ五組だったよ」と言うと。
「やれやれ、また君と同じクラスか。勘弁してくれよ」と少し照れくさそうに言った。
そう言っている傍らで、今日子が奈保子に耳打ちしていた。それを聞いた奈保子は顔を赤らめ恥ずかしそうに下を向いた。
ファイルを除いたのはほんの一瞬だったから、優さんや今日子がどのクラスかまでは僕にはわからなかった。帰り道、あまりに一瞬の出来事で、あれが本当に中学校のクラス編成なのかということにさえ疑問を持った。
僕の記憶では、五組の男子は僕とカオルの他に高橋君。女子は奈保子と下平さんだった。高橋君は高学年の時に転校してきた子で、体が大きく内気でクラスに溶け込むまでにすごく時間がかかった。下平さんも、友達とワイワイ騒いでいるよりは一人で読書をしている方が好きなタイプの子だ。カオルと奈保子は知っての通り活発で、誰とでもすぐに打ち解けられる社交性を持っていた。担任は僕と奈保子が両想いであることを知っていた。そして僕ら五人を同じクラスにすれば、内気な二人も中学校できっと上手くやっていけるだろうと考えたのかもしれない。担任のそんな気遣いが感じられる、妙に信憑性のあるメンバーだった。
☆
それから数か月後のバレンタインデーに僕は奈保子からチョコレートをもらった。
ホワイトデーの放課後、僕がバレンタインのお返しを渡そうと奈保子を呼びだすと、彼女は二人きりの空気と恥ずかしさに耐えられず学校中を逃げ回った。小一時間校内を探した後、体育館の裏で今日子に取り押さえられた奈保子を見つけ、僕は彼女にチョコレートを手渡した。奈保子は顔をそむけて決して僕の顔を見ようとしなかった。
僕はカオルを待たせていたため、じゃあねと言って足早に帰ろうとすると、今日子が「それだけ?他に言うことないの?」と僕を引きとめた。
他に言うこと? 僕はその場で途方に暮れた。言うべきことが何も思いつかなかった。呆れた今日子が僕に耳を貸すようにと手招きし、奈保子を後ろから取り押さえたまま「『付き合ってください』でしょ!」と耳打ちした。
僕が「付き合ってくれる?」と言うと、奈保子は顔を赤くして真っすぐ下を見ながら、うんと肯いた。
僕は急に恥ずかしくなって、走ってその場を立ち去った。家に帰ってから部屋に籠り、沸々と湧き上がる喜びを噛みしめた。
それから三日後に僕たちは小学校を卒業した。
おわり