誰のためでもなく、自分の意志で9時前に自宅を出発したことが、凄く新鮮だった。買ったばかりのBluetoothイヤホンで音楽を聞きながら電車に乗り込む。エクスプレスで新幹線の予約をし、駅の人ごみをかき分け9:20分ののぞみに乗って東京へ。東京で八戸行きの切符を買って、はやぶさに飛び乗る。全席指定の完全禁煙だ。大宮まで女の子と2人で、いつ乗ってくるかもしれないA席の人間の顔を想像していた。
大宮から乗ってきた中年の団体は、僕たちの後部座席のAからE席までを占領し、新幹線が走り出すやいなや缶ビールを開け始めた。結局僕たちの列のA席には、その中年の団体の1人が座ることになったのだが、僕たちの空気と仲間の盛り上がりの中間で自分の姿勢をいつまでも見いだすことができず、ばつが悪そうに終始車窓からの景色を眺めていた。彼らはお互いのことをニックネームで呼び合っていた。思い出話の内容からして、高校か大学の同級生といった感じだ。毎年仲間で旅行に行っているようで、皆妙にテンションが高かった。そこにはいない誰かの話で大笑いしたり、冗談を言い合ったりしていた。あんなにはしゃいでいる中年を見るのは初めてだった。僕が彼らの年になったときに、彼らと同じくらい楽しめる仲間が、果たして僕にはいるのだろうか?うまく想像できなかった。
カズオイシグロの「日の名残」を読んでいるうちに、新幹線はあっという間に八戸へ到着した。時刻は14時14分。家を出てから5時間ほどだ。こんなに簡単に来れてしまうものなのかと、少々拍子抜けした。昔バイクで来たときは、青森は本州の果てにある僻地のような印象を僕に与えた。盛岡あたりで一泊野宿して、翌日の夕方頃やっと到着したのが青森だった。帰りも帰りで、ETC割引のために青森港に到着後はすぐに高速に向かい、人気のないサービスエリアで野宿をした。翌日、そこから地元まで12時間以上、ひたすら高速道路を走りつづけた。青森は遠い、そう思いこんでいた僕の常識が覆った。
青い森鉄道に乗り込み、車窓の眺めを楽しんだ。線路を囲む田園は一面真っ白な雪に覆われ、その奥に民家やお店が見えた。わが社の販売店もあった。こんな場所でも当社は抜かりなくビジネスを成立させていた。九州や愛知で生産した車両をどうやって青森まで輸送するのか気になった。車内はローカル線にしては人が多く、そのほとんどは観光客のようで、外の景色とは対照的にやけに騒がしかった。車窓からの眺めに皆が目的地への期待を馳せている中、バスケ部のチームジャージを着た地元の高校生らしき男の子達だけが、退屈そうにスマホを眺めていた。すっかり観光地化してしまっているみたいだ。電車で来たことを少し後悔した。三沢駅に到着すると、ほとんどの人が電車を降りた。
東口を降りたロータリーの奥にある喫煙所で一服していると、宿に向かうバスを待つ人だかりができた。しばらくたって迎えにきたトヨタ・コースターには全員乗り切らず、10人ほどがそこで待たされることになった。当然ながら1人客は俺だけだ。隣で待つ団体の客は女性ばかりで5名ほど、年は30半ばから40半ばといったところで、皆で途切れなくお喋りに勤しんでいた。中でも元気のいいおばあちゃんがバスを待っている全員に飴を配りだし、俺も記念に1つもらっておいた。バスは5分ばかり待って到着し、待たせた割に大したお詫びもなしにそそくさと出発した。先が思いやられる宿だ。宿に到着して受付で名前を伝える。チェックイン待ちの人だかりをざっと見回してみたが、やはり1人客は俺だけみたいだ。従業員は次から次へとやってくる客をもてなすのに大忙しといった感じだった。韓国系か台湾系か、いずれにしてもアジア系の女の子が俺を部屋まで案内してくれた。部屋は4階、1人部屋としては申し分ない広さだ。部屋からの景色はさっぱりとしていて、ホテル裏のどこにでもありそうな雑木林が見えるだけだった。女の子が宿の案内を一通り済ませて出て行くと、部屋に静寂が広がった。今日から二泊、俺は自由だ。
ベッドに横になり、館内の案内図にざっと目を通す。とにかくまずは風呂だ。そのためにここに来た。浴衣に着替え、浮湯なる宿目玉の露天風呂を拝みに行くことにした。受付にあれだけ人がいるのだから、少しくらい混雑してても仕方がないと腹を括って向かったが、ちょうどチェックイン直後という時間帯もあって風呂は思いのほか空いていた。シャワーで汗を流しぬる湯に浸かる。アルカリ性単純泉のph9.1。すべすべした心地の良い温泉だ。早速露天風呂へ。写真で見たほどの物ではなかったが、なかなかいい。池の中に浮かぶようにして作られた露天風呂は、縁が見えないように湯船で浸され、人が入る度に惜しげもなく池に湯が注がれた。池の向こう側には人工的と見られる滝があり、池の中腹には大きなねぶたの人形が置かれていた。サウナに入ったが、これがぬるい。温度計は90度を指しているものの、青森の冷たいすきま風があちこちから差し込むようだった。旅に来たというのに、念願の一人旅に来たというのに、内から湧き上がってくるものは驚くほどになかった。こうやって人は丸くなってゆくのだろうか?あの頃の俺が、旅の中で何を感じていたのか、何を思って街を飛び出したのか、今一度思い返してみた。
早々に風呂を切り上げ、もう一軒あるという風呂に向かうことにした。バスで数分、駅までの道をもどり、「元湯」とかかれた大きな提灯が見えた。昔からある小さな大衆浴場をリフォームしたものらしい。一時間ほど楽しんで帰ろうと思ったが、大きめの湯船が1つあるだけで、サウナはおろか露天風呂も水風呂もなかった。おまけにお湯が熱く、とても30分と持たなかった。外に出て一服、雪に囲まれた小さな町を眺めた。部屋にもどり、私服に着替え、宿の敷地内にある公園を一周する事にした。すでに日は暮れ、頭上には半端に欠けた月が顔を出していた。道一杯に敷き詰められた雪は、人と車に踏み固められ、スケートリンクみたいにカチカチに凍っていた。滑らないようムラを探しながら慎重に歩いた。肩ほどの高さまで筒上に伸びた柱にねぶたを思わせる青森の伝統的な装飾や絵が描かれ、雪で覆われた公園を幻想的に照らしていた。Bluetoothイヤホンで坂本龍一の「戦場のメリークリスマス」を聞きながら、今の自分について、そして来月生まれてくるであろう我が子について思いを巡らせた。公園は池を中心にぐるりと一周回れる遊歩道があって、池に突き出た部分にはねぶたの山車灯籠が並べられていた。近くで見るとなかなか迫力がある。昼と夜とでは見え方が全然違う。デコトラみたいなものだ。そのまま一周池を回ってホテルに戻った。公園の入り口にある足湯には学生と思われる男女が6、7人いて、みんなで並んで写真を撮っていた。ココアを二杯分コップに注いで、喫煙所で日の名残を読みながら居酒屋が開く時間を待った。喫煙所は広々としていて、窓際にはロッキングチェアが4つ並べられていた。時間をつぶすには最適だった。頃合いを見て居酒屋に向かうが、食事を待つ人だかりがサービスの食前酒を求め集まっていた。俺も一杯もらおうと思ったが、レストランで食事をする人限定のサービスだと断られた。その場で待つのも居心地が悪いので、部屋に引き返してビールを飲んでそのまま寝てしまうことにした。日の名残をあきるまで読み、ニューロマンサーを数ページ読んだところで睡魔が訪れた。朝一で風呂に入ることを楽しみに10時前に就寝した。
翌朝は5時半に起床した。風呂に向かうが思いのほか人が多い。露天風呂に直行する。昨日の山車灯籠は左隅にあるみすぼらしいテントに隠されてしまったみたいだ。朝の冷たい空気を肺一杯に吸い込み、深く息を吐き出してみる。俺は今青森にいるのだ。思考はそこで止まってしまう。
二日ぶりにまともな飯を食べる。欲張って取りすぎてしまった。どれもなかなかうまい。一つとばした隣の席におばさんがひとりで通された。1人客は俺以外にもいたみたいだ。無心で食事を胃に詰め込んでから、部屋に戻って旅行記を書くことにした。忘れたくない思い出のために俺は文章を書く。書くことが一番リアルに思い出を留めておけると思うから。その思い出達に今まで何度となく励まされてきたから。この旅行は現時点で忘れたくない思い出になっているだろうか?まだ1日半残っている。もがかなければ何も残らない。そう思いながら二度寝した。
再び目覚めたのは10時半。出発の準備を整える。12時まで待てばそのまま次の部屋にチェックインできるかと思ったが、あっさり追い払われた。荷物を預け、バスで駅に向かった。駅から街まで歩くとこにした。コンビニまで1.5キロほど、ちょうどいい運動だ。道路脇には雪が積まれ、道幅の狭い道は一面が凍っていた。絶対に車で通りたくないと思うような坂道を、滑らないように気をつけながら、一歩一歩踏みしめるように歩いた。小学校の横をとおりすぎ、舟唄を聞きながら10分ほど歩くと大通りに出た。コンビニでタバコを買って一服し、家電量販店にワイヤレスイヤホンを買いに行った。悩んだ結果jvcのイヤホンにした。する事もないのでブックオフで暇をつぶすことにした。漫画で読破シリーズが揃っていたので、失われた時を求めてと旧約聖書と神曲を買い、ろくでなしブルースを読んだ。
時間を見て宿に引き上げることにした。きた道を駅までもどり、宿にむかって歩いた。宿までの道は1キロほどで、バスで向かうほどの距離ではないように思えた。渋沢邸とかいう建物を見に行こうと思ったが、改装中で中にははいれなかった。そのままチェックインし、案内もなく部屋まで向かう。部屋は西棟の11階だ。眺めは保証されている。部屋に入ると長い廊下が横に広がっていた。当たりだ。広いリビング、ベッドルームにヒノキ作りの広いバスルーム。部屋のどこからでも昨日歩いた公園を見渡すことができる。
編集中
おわり
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