2010年8月「夏の黄金比」
気が付けば大学に入ってもう一年が経とうとしていた。S市に住んで、一人暮らしを始めて、サークルの奴らと知り合って、もう一年。一年前の今頃は毎日美和さんと連絡を取っていたのに、今ではその相手は志帆に変わっていた。まったく、来年の今ごろは一体誰と連絡を取っているのだろうと僕は思った。
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いつもの中学の休み時間だった。僕は机で一人、星新一のショート・ショートを読んでいた。クラスメイトは皆友達との立ち話に勤しんでいる。教室の後ろではカオルとイチロウが家から持ってきたファッション誌を広げてナイキの新しいスニーカーについて話をしている。僕はそんな雑音を右耳から左耳へと受け流し、星新一の不思議な世界に意識を集中する。そんな中、視界の片隅に見える教室の入り口に千里さんらしき人影が現れる。由子さんが小走りで入り口に向かい、千里さんに何かを手渡す。僕は視界の隅が気になって、続きの文章を見失う。そこへ彼女が現れる。彼女は千里さんと由子さんと何かを楽しそうに話している。クラスメイトの放つノイズの中で、彼女の笑い声だけが不思議とクリアに僕の耳に突き刺さる。僕の心拍数が一気に跳ね上がり、恥ずかしさで顔が赤くなる。僕は顔が赤くなったことを気が付かれないように、懸命に本を読むふりをする。まったく意味を持たない記号をただただ目で追いかけ、頃合いを見てページをめくる。本当は本なんて読んでないんじゃないかと誰かに悟られないように、自然体で本を読んでいるふりに意識を集中する。彼女は満足そうに微笑むと手を振って帰っていった。僕はほっとして肩をなでおろす。でもそれ以上読書を続けることなんてもうできない。僕は仕方なくカオルとイチロウの輪の中へと向かう。
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七月上旬、四〇〇㏄のカワサキを二年ローンで購入した。サークルのライブでは女性の先輩に何か一緒にやろうと誘われてタイム・アフター・タイムをアンプラグドで演奏した。アパートの近くで大きな火事があった。徹夜でテスト勉強もしたし、徹夜で麻雀もした。サークルメンバーで花火大会に行ったり、そんな大学二年の前期が終わった。
夏休みには東京にいるローリーのアパートに泊まり込んで日雇いバイトに明け暮れた。早朝や深夜に都内近郊の大きなスタジアムまで行き、くだらないアイドルグループやなんかのライブの設営をした。稼いだ金をすべて使ってローリーと二人で一週間の北海道ツーリングへ出発した。十代最後の夏の思い出の一つだ。
九月になると志帆から連絡があり、どこかへ連れて行けというので伊豆諸島の式根島へ行くことにした。なぜよりによって式根島だったのか? 今となっては全く思い出せない。とにかく僕は志帆と二人でフェリーに乗り、人口五百人ほどのこぢんまりとした島、式根島へ向かった。
港に着いた僕たちは、キャンプ場を予約するために役所まで歩いた。町と港を繋ぐ坂道を登り、小さな商店がポツポツと並ぶ島のメインストリートを抜け、役所で受付を済ませキャンプ場へ向かった。キャンプ場に向かう途中で食堂を見つけ、昼食にラーメンを食べたが、このラーメンが少し感動するくらいまずかった。
島の東側に位置する小さなキャンプ場には既に一組の先客がいた。我々と同年齢くらいの学生が男だけで四人、コールマンの立派なテントを張り、キャンプテーブルを囲んで地図か何かを全員で眺めていた。僕が志帆を連れてキャンプ場に現れると、彼らの視線は一斉に志帆へと注がれ、そして全員が妙にむず痒そうにテーブルの上へと視線を戻した。僕たちが二人用のテントを張ると、もうそれでキャンプ場は満員になってしまったように見えた。
テントに荷物を置いて、島を一周してみることにした。それ以外に特にやることもないのだ。島を回りながら無人の温泉に足を浸けたり、ベンチに腰を下ろしたりして時間をつぶした。見晴台の上から近隣の島を眺めていると志帆が言った。
「島って不思議だよね。なんで流されないんだろうね」
「ごめん。ちょっと意味がわからないんだけど」と僕は彼女の意図が掴めず思わず聞き返した。
「だって不思議でしょ? 島は海に浮かんでるでしょ。海には波があるでしょ。なのになんで流されないで留まっていられるの?」
今更説明するまでもないが、志帆はアホだった。
島を一周してしまった僕たちは浜辺で座って海を眺めた。島の北側に位置するその海水浴場がどうやら最も賑わっているらしかった。僕たちの他には観光客が二三組、カップルや家族連れがシュノーケリングをしたり浮き輪で浮かんだりしてそれぞれの時間を過ごしていた。
十代最後の夏が終わる。ごつごつとした高い岩に囲まれたエメラルドグリーンの海を見ながら僕はそんなことを考えていた。ちょうどタバコの一口目の煙を吐き出したとき、浜辺に停められたかき氷屋のラジオからサザンオールスターズの「夏をあきらめて」が聞こえてきた。
「十代最後の夏」という響きに無性に焦りを感じるのはなぜだろう? 僕は十代でやるべきことを本当にやれたのだろうか? 十代で経験すべき何かを経験できたのだろうか? もちろん全部じゃなくていい。百点じゃなくても、合格点くらいは取れたんだろうか? 大学一年の夏は一ヶ月ニューヨークに行った。長期休みを使って車で鹿児島港へ、バイクで宗谷岬へ行き、実質的な日本縦断を果たした。人並みに恋愛もした。大学受験は失敗したが、S市でののんびりした生活も悪くないと思えるようになった。好きなときにバイクで峠へ行き、好きなときに温泉へ行きサウナで汗を流し、バイト代が入るとカツミのバーで上手い酒を飲んだ。思い描いた大学生活ではないけれど、思い描いた大人にはなりつつある。僕の十代は合格点か? やり残したことはないか?
「中学を卒業してから奈保子とはどうなったの?」と志帆が唐突に口を開いた。
「どうなったって、連絡が取れなくなってそれっきりだよ。ただ高三のときのバレンタインにカオルたちと一緒に冗談でチョコを渡しに行って、そのときまた連絡先を教えてもらったんだ」
「それから連絡してないの?」
「大学一年のゴールデンウィークと夏休みに一度飲みに行こうって誘ってみたんだけどね。専門学生だから休みも合わなくて断られたよ」
「誘ったのはまだ奈保子のことが好きだったから?」
僕は少し考えてから首を振って答えた。「いや、あんなに好きだった人とこのまま一生関わることなく終わって行くのは惜しいなって思ったんだよ。せめて奈保子と普通に話ができる友達になりたかった。だって俺たちは元々小学校の同級生だからね。もちろん下心がないわけじゃなかったけど」
「じゃあ今奈保子に付き合ってくれって言われたらどうするの?」
「そんなの今の彼女を知らなきゃ何ともいえないよ。もう五年も連絡も取ってないんだから」
「ふーん」と志帆は納得いかないといった様子で言った。
テントと寝袋だけを持って家を出た僕たちは、キャンプというのに調理器具も食材も持ち合わせておらず、島のもんじゃ焼き屋で普通に夕飯を取ることにした。お好み焼きともんじゃ焼きをビールで腹いっぱいに流し込み、店を出た僕たちは水着に着替えて温泉に向かった。
海辺のごつごつとした岩を長方形に浅くくり抜いただけ、というようなあけっぴろげの広い露天風呂だった。脇にシャワーがひとつ付いていて、僕たちは順番でそこで体を洗った。シャワーで髪を流す志帆の程よい肉付きのビキニ姿を僕はこっそり眺めていた。
体を洗い終え温泉に浸かる志帆に何か言うべきか迷って、結局何も言わずに海へ視線をそらした。ただでさえ人の少ない離島の夜十時、辺りには人の気配はなく波の音だけが響いていた。明かりはシャワーの近くに裸電球が一つだけで、温泉に耳まで浸かって空を見上げると綺麗な天の川が見えた。
「天の川だ」僕は思わず声に出してそう言った。ずいぶん久しぶりに天の川を見た気がする。
「きれいだね」志帆は束ねた髪が湯船に浸からないように空を見上げてそう言った。
また女の子と星を眺めている、と僕は思った。いったいこの先何人の女の子と星空を眺めることになるんだろうと僕は思った。
僕たちはキャンプ場に戻り寝支度を調え、二人用のテントの中で窮屈な眠りに着いた。
翌朝激しい雨音で起きた僕たちは外に出ることもできず、横になってテントの低い天井を眺めながら小一時間話をしていた。志帆は楽しそうに大学のサークルや興味を惹かれた講義のことを話した。志帆は軽音サークルに入って気の合う友だちを見つけたようだった。
「ペイジってみんなに呼ばれてる男の子がいるんだけど、その子が服装から髪型までジミー・ペイジにそっくり似せてるの。ちゃんとサンバーストのレスポールにピックガードを付けてね。ギブソンじゃないのが惜しいけど。アユムにも会わせてあげたいな」と志帆は嬉しそうに言った。
雨脚が弱まってきて、僕たちはテントから抜け出し水道で顔を洗った。テントをたたみ、フェリーの時間までキャンプ場近くの浜辺を散歩した。通り過ぎた雨雲の切れ端から太陽が顔をのぞかせ、海面を眩しく照らしていた。雨に湿った生暖かいムラのある空気を風が運んできて僕たちを包んだ。妙に素敵な朝だった。行きに通った港までの道を通り、フェリーに乗って本島へ渡り、車でS市のアパートまで帰った。
その日僕たちは同じベッドで眠ることになった。それまで僕たちはあくまで友だちという体裁を守るために、どちらかはベッドで、どちらかはソファーで眠った。僕は隣に志帆が寝ているからと言って指一本触れる気はなかったが、志帆は淑女としてのメンツを保つために僕と同じベッドで寝ることをそれまで避けてきた。ソファーで寝ると腰が痛いと志帆が言い出して、僕がベッドで寝ることを勧めたのだと思う。だからといって僕はソファーで寝る気はなかった。狭いテントで一泊したことも我々の抵抗感を下げる要因だった。そうして僕たちは始めて同じベッドで眠ることになった。
そして翌日、僕の腕を抱く志帆の胸の柔らかさで僕は目覚めた。しばらくはその胸の感覚に意識を集中しながら寝たふりを決め込んでいたが、手の痺れに耐えかねた僕はまだ眠っている風を装って眠る志帆の肩に手を回した。志帆は嬉しそうに身を擦り寄せて、僕の胸の上ですやすやと眠った。
正午前にベッドから抜け出した僕たちは、車で一時間ほどの距離にある遊園地に行くことにした。今朝の出来事については僕も志帆もあえて触れることはなかった。一通りアトラクションを楽しんだ後、帰る前に観覧車に乗りたいと志帆は言った。観覧車に乗ったころにはすっかり日も沈んでいた。その日やってきたばかりの夜の闇の暗さに、僕は十代最後の夏の終わりを感じた。
「観覧車に乗ったら一度はやってみたいことがあったの」と志帆が言った。
「ゴンドラが頂上を通り過ぎる瞬間に、思い切り叫ぶの。『わー!』って」
観覧車の頂上を通り過ぎる瞬間に思い切り叫ぶことにどんな意味があるのかはよくわからなかったが、僕は志帆に付き合うことにした。僕たちは観覧車の頂上を通り過ぎる前方のゴンドラを見ながらタイミングを見計らった。前方のゴンドラと後方のゴンドラを交互に確認し、我々の乗るゴンドラが最も高く登ったとき、志帆の「せーのっ!」という合図に合わせて僕たちは大きく息を吸い込んだ。
「わーーーー!!!」
僕も志帆も力の限り大声で叫んだ。二人の声が狭いゴンドラの壁に跳ね返り鼓膜を刺激した。反響した自分の大声が鼓膜に突き刺さると、不思議と脳からアドレナリンが湧き出る気がした。人間は時々大きな声で叫ぶべきなのかもしれない、精神衛生上。
観覧車を降りた志帆はその後終始満足そうににこにこと笑みを浮かべていた。僕は志帆を駅まで送り、彼女は電車で東京へ帰って行った。僕は帰りの車の中で相対性理論の「夏の黄金比」を聞きながら、右手に残った志帆の体の柔らかさを思い出していた。あの溶けるような甘い感覚がまだ頭の中にほのかに漂っていた。そして十代最後の夏を思って僕は家路を急いだ。
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大学二年の夏休み最終日、僕は東京の大学への編入試験申込みの願書を提出した。S市の生活に不満はなかった。でも不満がないことが不安だった。
週三日の講義と週二回のサークル会、週に一回の飲み会と週五日のセーイチのアパートでのたむろ。バイクに温泉、サウナに美味いビール。絵に書いたようなモラトリアム、まさに人生の夏休み。このままS市で気ままな生活を続けサークルの連中とつるんでいても俺は何者にもなれない、そう強く感じていた。ここで遊び呆けた分、環境を変えて挽回しなければという焦りと、元々東京に行きたいという思いが強かった僕は、サークル仲間には黙って東京の大学への編入試験を受けることにした。
大学で後期の授業が始まると、僕は毎日図書館に通った。この大学の唯一称賛すべき点として、図書館はいつも空いていて、一列の本棚につき一席の自習席が窓際に設けられていた。そのため自習席は窓際の壁と本棚に挟まれた完全個別状態にあった。僕はお気に入りの作家の本棚にある自習席で編入試験のための勉強をしながら、勉強に飽きるとそのへんから適当に本を引っ張り出してきて飽きるまで読んだ。そうして少しずつまともな大学生らしい日常を積み上げていった。
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秋、文化祭のシーズンがやっきた。サークルの連中とヨシオのゼミの出店に冷やかしに行ったときに、夏樹さんという女の子と知り合った。そしてどういう経緯かまるで思い出せないが僕は彼女と連絡先を交換することになった。
夏樹さんは美人だった。艶のある長い黒髪にきりりと伸びた眉、はっきりした顔立ちをしていた。身長はそれほど高くないものの、すらっとした体型と全体のバランスから実際以上に背が高く見えた。
夏樹さんはなぜか僕に妙な関心を持ったようで、頻繁に連絡をくれるようになった。彼女が僕と話がしたいというので、講義終わりにキャンパス内のベンチで座って話をしたりもした。僕たちがベンチで話をしていると、通り過ぎる男子学生は(時には女子学生も)皆夏樹さんを一瞥した。彼女は服の趣味もよかったし、化粧も上品だった。姿勢も良く育ちも良さそうだった。そんな彼女に明らかな好意を寄せられる僕をサークルの連中は羨ましがった。おまけに夏樹さんは僕と同じ誕生日だった。誕生日はいつかと聞かれて僕が答えると、彼女は笑って「本当はいつなの?」と言った。
「本当もなにも、誕生日は一つしかないよ。十二月二十一日、フランク・ザッパとパコ・デ・ルシアと同じ誕生日だよ」と僕はいった。
「本当に? 私も十二月二十一日なの!すごい! なんだか運命みたい」たしかに運命みたいだった。
さすがの僕もこんな綺麗な人と誕生日が一緒だなんて知ったらそれだけで少し惚れてしまいそうになった。だが僕はこの子に好感を持つことができなかった。僕の中の何かが彼女を受け入れることを拒んだ。
まずこの子の話は絶妙につまらなかった。すべてが事実報告だった。そこに彼女の思考はなかった。彼女との会話を通じで僕が理解したのは彼女の中身が空っぽであるということだけだった。
それから僕はこの子に性的な興奮を全く感じなかった。それは誰のせいでもない。彼女はきっと彼女なりの美しさを求めて、それなりに努力してあのスレンダーな体型を維持していることは想像できた。しかし性的指向から言わせてもらうと、僕は細身の女性には全くと言っていいほど興味がなかった。夏樹さんがどんなに僕のそばによっきても、僕は不思議と彼女に心を掴まれることがなかった。この子を抱きたいと思ったことがなかった。アパートに帰って玄関を空けたところに彼女が裸でいたとしても、たぶん少し迷うと思う。
最も僕の癪に障ったのが、彼女が自分のことを「いい女」だと思っていることにあった。もちろん自ら口に出して言ったことはなかったが、彼女が自分を「いい女」だと思っているということは、彼女の態度や言動からにじみ出ていた。もちろん彼女はいい女だった。でも僕は昔から、いい女の持つ美しさよりもその皮を一枚履いで現れる虚栄心の醜さの方に意識がいってしまうのだ。どんなにいい女でも「この人は自分のことを『いい女』だと思っている」と思った途端に、その女性のは僕にとって作られたマネキンみたいに生気を失い、恋愛対象から外れてしまうのだ。
夏樹さんはあらゆる角度から僕の興味を惹こうと試みているようだった。僕がバイクに乗っていると知るとバイク雑誌を持って来るようになったし、僕が洋楽を聞くと言うとやたらとビートルズの話をするようになった。僕が好きな映画の話をすると次に会うときまでには必ず観て来たし、彼女の提案するデートプランは僕にとっても魅力的なものだった。例えば六本木でボブ・ディランの絵画展があるから一緒に行こうとか、しし座流星群を富士山の五合目まで見に行こうとか、思わず即答してしまいそうな内容だった。
しかし、その夏樹さんの試みはどれもかえって僕を苛立たせた。僕もなぜあれほど夏樹さんを毛嫌いしていたのか、今となっては思い出せないし、あれほど邪険に扱ってしまったことを心の底から反省している。でも当時の僕には、彼女の言動のすべてが的外れに感じて仕方なかった。彼女と一緒にいる時間が無駄に思えて仕方なかった。編入試験のために勉強をしなくちゃいけないのに、俺はなぜこんな女と会わなければならないのか? そういう疑問が頭から離れなかった。
この頃の僕は「自分じゃなくてもいい相手」と時間を過ごすことを極端に嫌った。つまり、夏樹さんからは「俺じゃなければダメ」な理由や熱が伝わって来なかったのだ。僕は自分でなくてもいい相手のために自分の時間が奪われていくことに強い怒りを感じた。その根本にある思いは「俺が奈保子を思う気持ちに比べれば、お前のはその足元にも及ばない」という奈保子への思いだった。
誘われたデートを一度断り、約束していたデートをニ回すっぽかした挙げ句、僕は「もうこれ以上君とは関われない」という趣旨のメールを送ると、夏樹さんからの連絡はようやく途絶えた。
夏樹さんの一件が終わって、僕に平和な日常が帰ってきた。毎日図書館に通って、新聞を読んで時事を確認し、英語の勉強をして好きな作家の小説を読んだ。その甲斐あってか僕は十一月終わりの編入試験に合格し、三年目の大学生活を東京で迎える権利を手に入れた。
おわり