2015年2月「バイバイ名古屋県」
奈保子の誕生日から二ヶ月後、学生生活最後の夏休み。地元に帰った僕は再び奈保子に連絡して、二人で飲みに行く機会を得た。
そこで僕がどれほど彼女のこと愛しているかを時間をかけて説明した。彼女も一度好意を寄せた相手に口説かれることをそれほど嫌がらなかったし、僕の力説を概ね好意的に受け取ってくれている様子ではあった。だが二ヶ月前と変わらず奈保子には既に彼氏がいた。どこの馬の骨かもわからない訳の分からない男が、この僕の預かり知らないところで奈保子の彼氏を名乗っていると思うと、僕はいてもたっても居られなかった。
僕はまず自分を納得させるために、奈保子にこう説明した。
「今、俺は学生だ。そして東京に住んでる。奈保子はもう働いていて、名古屋に住んでる。俺は奈保子の事を世界中の誰よりも、ダントツで愛している。でも俺たちがおかれている状況を考えると、きっと今付き合っても俺は奈保子を満足させてあげることはできない。学生だし、金もないし、遠距離だから。でも奈保子だって楽しみたい。それは当然のことだよ。俺は自分のために奈保子の楽しみを邪魔したくはないし、奈保子には誰よりも幸せになってほしい。だから百歩譲って、奈保子に今彼氏がいることは我慢する」
「ありがとう。じゃあ今は彼氏を大切にします」
そして僕は奈保子に2つのことを約束してほしいと言った。一つは「結婚だけはしないこと」、二つ目は「今の彼氏と別れたら、すぐに僕に知らせること」だ。
約束することはできないという奈保子に僕は何度も念を押して、彼女を家まで送り届けた。
☆
奈保子から連絡がきたのはそれから四ヶ月後、2015年の一月のある日のことだった。まるで自動車運転シミュレーターに出てくる老人みたいに、突然その日はやってきた。
僕はいつも通り七時半に起床して、バイト先のホテルへ向かった。一月も下旬に差し掛かり、日陰の多い東京の冷たい冬もそろそろ終わりかと思わせるような暖かい朝だった。
朝の作業を終え、喫煙所へ向かう。先輩にもらったコーヒーをすすりながらスマホを取り出し、タバコに火をつける。一口目の煙越しに曇るディスプレイにメッセージを知らせる表示を確認する。まず目に飛び込んできた見覚えのないミニーマウスのトップ画に、僕は一瞬大学のグループラインを連想した。「朝からうっとおしいな」そう思いながら名前を確認すると、そこには奈保子の文字があった。
僕はメッセージもろくに確認せずに、先輩に一言「大変です」と言った。
その時の僕がどんな顔をしていたのかは想像もつかないが、先輩は驚き心配そうな顔で、どうした?と言った。
「奈保子からメッセージが来てるんです」
先輩は、奈保子って誰?とでも言いたそうな表情で一瞬固まった後、この前言ってた子ね、良かったじゃん、と苦笑いして自分のスマホに視線を戻した。
「久しぶり。突然ごめんね。近いうちに地元に帰る予定はありますか?」
「彼氏と別れたっぽいですよ」僕がそう言うと先輩は視線も動かさずに「良かったじゃん」とだけ言った。
事情を察した僕が名古屋まで会いに行こうかと聞くと、奈保子は喜んでその提案を受け入れた。
その週の土曜日、僕は東京駅から新幹線で名古屋へ向かった。詳しいことは何も聞かなかったが、きっと彼氏と別れたんだろう。車窓から見える景色を眺めながら、僕は奈保子への思いを巡らせた。
今年で僕たちは二十五歳になろうとしていた。高卒で働き出した地元の友人たちは皆結婚し、子供を持つものも少なくなかった。大卒の同期でさえ結婚の話がちらほら聞こえてくるころだ。影響されやすい奈保子のことだから、年齢的に考えて次の交際相手は間違いなく結婚を見据えて判断するだろう。おそらくこれが奈保子へアプローチする最後のチャンスになると僕は思った。失敗は許されない。
名古屋駅に到着した僕は仕事帰りの奈保子と待ち合わせ、彼女が予約してくれたダイニングバーへ向かった。
個室のテーブル席に向かい合って座った僕たちは、店員に勧められたシャンパンで乾杯した。
浮かない顔でグラスを見つめる奈保子に事情を聞くと、彼氏に振られたと言った。
去年の秋辺りから意見の違いが目立つようになり、喧嘩が増え、最近では連絡もあまり取らなくなったということだった。中途半端な関係にしびれを切らした奈保子が彼氏の家に押しかけ、話し合いの末二人の関係は破局を迎えた。奈保子は心境をこう続けた。
「喧嘩が多くて、最近は連絡も取ってなかったけど、別れてから自分がすごく落ち込んでいることに気付いたの。だから私、やっぱりあの人のことが好きだったんだなって思ったの。せっかく会いに来てくれたのに、こんな話でごめんね」
僕は喉まで出かけたその男への怒りをなんとか沈め、奈保子を慰め励ますことに集中した。
今奈保子が感じている悲しみは全部まがい物で、そんな男の為に奈保子が悲しむべきことなんて一つもないのだと、僕は思った。
帰り際、僕は奈保子に改めて自分の気持ちを伝えた。
「『奈保子じゃなくてもいい』なんて平気で言える男の為に奈保子が傷つく必要はないよ。そんな連中とは二度と付き合わないことだよ。これだけは覚えておいて欲しいけど、俺は奈保子じゃなきゃだめなんだ。またいつでも名古屋に遊びにくるから、気持ちが落ち着いたら連絡してね」
そう奈保子に言って僕は夜行バスに乗り込んだ。
☆
次々に流れていく名古屋の街並みを眺めながら、僕はただ奈保子のことを考えていた。
僕はもう十五年も奈保子を追いかけている。ただの十五年じゃない。最も敏感で、繊細で、傷つきやすい青春時代の十五年だ。十代に体験する十年間は人生の体感時間のおよそ三分の一を占めるとどこかの学者が言っていた。その三分の一を僕は奈保子のためだけに捧げたのだ。僕はこの先の数十年も、奈保子を愛し続けるだろう。それは客観的な事実のように思えた。僕は奈保子いう型に十代の一切合財を流し込んで、十五年間それを固め続けた。そうやって僕は人格形成されたのだと、僕は思った。
そんなことを独りで延々と考えているうちに僕は眠ってしまった。気が付いたらバスの外を流れる景色からは日の光が失われていた。正確な時間は分からないが、おそらく七時位だろう。だとすると僕はもう四時間近く眠っていたことになる。
バスは高速道路を時速100キロ前後のスピードで走っている。知らない道を走り、知らない街の明かりが近づいている。
俺はこんな道知らない。俺は今どこへ向かってるんだ?
何言ってるんだよ。ここは東名高速じゃないか。そして東京へ帰るんだ。
違う。俺は東名高速を良く知ってる。バイクで何度も走った。見ればわかるが、これは東名じゃない。東京? 何言ってるんだ。東京なんかに帰ってどうするんだ? そもそも東京なんて街を俺は知らない。
眠りから覚めてから、このやり取りまで三秒もかからなかった。自分を取り巻く環境を全く理解できず、僕は一瞬どうしようもなく混乱していた。少し寝ぼけていたのかもしれない。
東名高速でバスに乗るのは初めてだ。この高さから、東名高速とその沿線の街を眺めたことがなかった。それで一瞬ではあるものの自分がどこで何をしているのかさっぱりわからないという錯覚に陥ったのだ。
ほっと一息ついた途端に、僕は虚しくなった。「東京なんかに帰ってどうするんだ?」口に出すことのなかった自分の言葉が、空っぽの頭の中にいつまでも残って消えなかった。
僕がまだ子供の頃、小学校にも上がっていないくらい小さい頃、夜の高速道路から見える街の明かりは僕を不安にさせた。知らない街の光と、一定の距離で並び街まで伸びる高速道路のオレンジ色の明かり。その道の先にはまだ僕の知らない沢山の喜びがあるようにも感じたし、二度と家に帰れないんじゃないかと思わせる恐怖もあった。あるいは、僕はまさしくあの東京の街の明かりに憧憬を見ていたのかもしれない。そんな懐かしい感情に抱かれたまま、僕は奈保子のことを想って再び目を閉じた。
☆
奈保子に会いに行った翌週、バイト先の新年会があった。ホテルのボールルームを貸し切り全従業員を集めた盛大なパーティーで、ビンゴの景品には同じ系列のホテルの宿泊券が多数出品されていた。
何の気なしにゲームに参加した僕は、幸運にも伊東の温泉旅館のペアチケットを手に入れた。しかも客室に露天風呂まで付いている。
まだ学生であった僕にとって、客室露天風呂とは成功者しか入ることが許されない贅沢の極みのような代物だった。
僕は確信した。今自分は何らかの見えない力によって導かれている。奈保子と伊東の温泉へ行くようにと天が導いている。
僕は溢れる興奮を抑えながら奈保子に連絡した。
「バイト先の新年会で伊東の温泉旅館が当たったよ!一緒に行こう!」
天の導きによって突き進む僕を止めるものは何もない。奈保子もきっと誘いに乗ってくれるだろうと思った。しかし、以外にも彼女からの返信は否定的だった。
「すごいね!いいね伊東の温泉!
でもやっぱり私、まだ元彼のことが忘れられないみたいなの。そんな状態でアユム君と一緒に旅行に行くのもどうかなって思うんだ。少し考えさせてくれないかな?」
ここで必要以上に押しても逆効果と思った僕は、判断を彼女に委ねた。「急がなくていいから、奈保子が気が向いたタイミングで連絡してくれればいいよ」そう連絡して深追いを避けた。
風は吹いている。焦らなくても奈保子はきっと応えてくれる。そう思っていた。
それから一ヶ月後の三月中旬だった。僕は女友達に誘われた飲み会に参加するために、新宿に向かって明治通りを自転車で走っていた。
信号待ちでふとスマホを見ると、奈保子から連絡がきていた。僕は嬉しさのあまり一瞬家に帰ろうかと思った。奈保子に比べれば今から向かおうとしている飲み会なんて何の魅力も感じない。信号は青になっていたが、僕は急いでメッセージを確認した。
「アユム君に謝らなければならないことがあります。彼氏とよりを戻したので、伊東の温泉には行けません。本当になんて誤ったらいいかわからないけど、名古屋に会いに来てくれたり、沢山励ましてくれてありがとう。
アユム君も幸せになってくれることを願っています」
僕はそのまま携帯をアスファルトに叩きつけてやろうかと思ったが、平然を装ってスマホをポケットにしまった。そして「ふう」と一息ついて再びペダルをこいだ。
そしてしばらくの間、僕は何事もなかったかのように新宿へ向け自転車をこぎ続けた。あまりのショックに、脳は思考を遮断し、心は感じることを拒否しているみたいだった。明治通りを通り過ぎていく車の音だけが僕の頭の中で静かに響いていた。
その音は徐々に遠のいていった。脳内に静寂が走った次の瞬間、思考がふつふつと湧き上がってくるのを感じた。溢れ出そうになる感情が言葉に昇華しないように、僕は懸命に思考を制御した。
次第に勢いをます感情の波はやがて抗う術もなく僕の心の防波堤を乗り越えた。平穏な陸地に豊かに肥える理性を洗いざらいなぎ倒していった。花園神社の横の緩やかな坂を上りながら、僕はかつてないほどの奈保子への怒りを感じた。その怒りが次から次へと運んでくる憎しみに満ちた言葉で頭の中は埋め尽くされた。
「あの女は馬鹿なのか?」
居酒屋の前に自転車を停めて、僕は先ほどの奈保子のメッセージをスクショでアキラに送った。自分の立場を客観的に評価してもらうためだ。
エレベーターの中でアキラから返信があった。
「これはなかなかのクソ女だな(笑)」
やっぱりそうだ。僕は怒っていいのだ。
そして友人の待つテーブルに座ったとき、誰でもいいから今日は女を持ち帰ってやると心に決め、届いたジョッキを一口で空にした。
おわり